1章 巫山之夢《22》


 桜人で賑わう上野公園。
 散り始めの桜が宙に舞い、天も地もどこをみても桜色で、息苦しいくらいだ。
 木々の合間に見える青空が唯一息ができる場所のようにも見える。
 榊が行きつけの眼鏡屋からひな子を伴い帰宅するなり花見に行こうと言い出し、屋台で弁当を買い、適当な場所に腰を下ろしたのが数十分前。
 花見に酒無しなどあり得ないと、酒の買い出しにあさきが席を立ったのがほんの五分程前。
 あさきが戻るまで弁当を開けるわけにもいかず、四人はのんびりと桜を愛でていた。
「どうだいひな子さん、眼鏡で外に出た様子は」
 そう榊が話しかけたひな子の顔には、榊ほどまん丸ではないが、丸みを帯びた大きめのフレームで作られた真新しい眼鏡がそっと座っていた。
「はい、特に変な感じはないです。ちゃんと……見えてます。小さな本物の花弁までちゃんと」
 嬉しそうに目を細めるひな子の様子に、榊は微笑みながら頷いた。
「見えないと言っても、ぼんやり輪郭は見えていると言っていたからね、眼鏡さえあればどうにかなると思ったんだよ。希にいるんだ、生まれつき視力が弱い子って言うのは。これは呪いの類いでも、もちろん妖物のせいでもない、複雑な人間の身体構造故の誰にでも起こりうる疾患だ。決してお母さんや君のせいではないよ」
 そう言われたひな子は眉を寄せ、涙ぐみながら微笑んだ。
「ありがとうございます。居候させていただいた上にこんな……」
「いやいや、いいんだよ。もう家族だからね」
「でも、すごいお値段でしたよ」
「いやぁ、私の箪笥には売ればお金になる、今となっては無駄な着物が沢山あるからね」
「――そうそう、俺は知ってるぞ、大事に大事に箪笥の奥にしまいこんでる癖に、着る機会もねえ、売れば家一つ帰るくらいの価値がある着物が眠ってんのをよ」
 声がした上方に目をやると、両手いっぱいに酒瓶を抱えたあさきが機嫌良さそうに、八重歯を見せて笑っていた。
「買いすぎじゃないかいあさき。確かに私も今日は飲んでいいとは言ったけれども」
「あぁん? あの日以来、あんたが飲むなっつーのを律儀に守ってたんだぞ。このくらい食前酒だろうが」
 ぶつぶつ文句を言いながらも、口元を緩めたままあさきが根夢の隣に座る。
 アズキとひな子を除いた、要するに成人男性三人の前にあさきは一本ずつ酒瓶を置いていく。
「まったく……仕方ないね」
 そう呆れたような口ぶりをしながらも、榊は酒瓶の蓋を開け、瓶のまま一口酒を含んだ。
「はは、たまにはこう言う野蛮な飲み方も悪くないね」
「野蛮って言い方が気に入らねぇけど、今日は許してやるよ」
 ふんと鼻をならしながらも、あさきは機嫌を損ねることなく、ぐいっと一口酒を飲み干す。
 そんな二人を尻目に、根夢は置かれた酒瓶をそっと避け、水筒の茶をすする。
「なんだよ根夢、飲まないのかよ」
「二人ともご機嫌に飲んでるから……僕までうっかり酔ったら誰が連れて帰るんです?」
 あさきは、さっきから仲良さそうに弁当を頬張るアズキとひな子に視線を送る。
「ダメに決まってるでしょう」
「じゃあ夜付き合えよ」
「ええ……」
 先日の失態を忘れるはずもなく、かと言ってあさきの誘いを無下にする気にもなれない。
 困惑した様子で根夢は榊に視線を送った。
「家にあるとっくりに移し替えて、とっくり一杯分だけって約束してくれるならかまわないよ」
 榊の言葉に、あさきが上機嫌で笑った。
 
   ・・※・※・・
 
「あさきさん、入りますよ」
 特に返事もないが、根夢はとっくりとお猪口、炙ったエイヒレがのったお盆を片手に、襖を開ける。
 行灯の明かりが広がる部屋の奥、窓の縁に腰掛けていたあさきがゆっくり振り向いた。
「来たな。お、エイヒレもあるのか気が利いてるな」
 月の光を背にしたあさきの表情はいまいちよく見えないが、笑っているのは感じ取れた。
「なんだか榊さん機嫌がよくて、作ってくれたんですよ」
「ふーん」
 気の抜けた相槌を打ちながらあさきが根夢に手招きをする。
「月が綺なんだ。こっち来いよ」
 襖を後ろ手に閉め、部屋の中央に置かれたちゃぶ台に持ってきた物を置くと、根夢はあさきに近づいた。
 その根夢の腕をあさきが引く。
「わっ……」
 よろけた根夢を抱き上げるようにしてあさきは根夢を膝の上に乗せた。
「……でかいな」
「当たり前です。いつまでの子供のつもりでいないでくださいよ」
 根夢はあさきの膝からすぐに降りると、あさきを真似るようにして窓の縁に座り、空を見上げた。
「……あれ、ああそうか満月なわけないですね」
 月が綺麗と言われ、想像したのは真ん丸の月だった。しかし目に入ったのは弓のように細い三日月だ。
 中川の家で夢渡りをした時、見上げた空に浮かんでいたのは月は真ん丸だった。あれから日が経っているのだから同じ形な筈がない。
「満月だけが綺麗とは限らないだろ」
 月を見上げたままつぶやくあさきの横顔はどこか遠くを見ているようで、不安に駆られる。
 根夢はあさきに真っ直ぐな視線を送り、口を開く。
「あさきさん、僕が討伐の仕事するの……本当は嫌なんじゃないですか」
 根夢の問いかけに、あさきは一瞬眉をひそめた。しかし、すぐにフンと鼻を鳴らすと口の端をあげ、対抗するような視線を返し、答える。
「そんなことはねぇ。お前にはちゃんと強くなってもらわないと困る」
 珍しく茶化す様子もないあさきの様子に根夢は押し黙った。
 窓から入った風が、根夢の髪を揺らす。
「……あの」
「なんだ?」
「今回の中川さんの件、僕の両親殺した烙条家と無関係じゃないですよね?」
「……」
「あさきさん」
 黙りこくったあさきを問い詰めるようにして根夢があさきの顔をのぞき込む。
 視界に根夢の顔が入ると、あさきは小さくため息を吐き窓の外に視線を逃がす。
「そうだ。関係ないどころじゃない。確実にお前を探している中での一件だ」
「……見つかってしまったんでしょうか」
「いや、まだみたいだな。だから情報が漏れないようにひな子を預かってるんだ。だが――」
「時間の問題、ですよね」
「ああ」
「僕、強くなりたいです。あさきさんを打ち負かせるくらい強く」
「っは、いい度胸だ。ひぃひぃ言わせてやるよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「そりゃ楽しみだ」
 ニヤリと笑うあさきの目が僅かに金色を帯びた。
 根夢はそれを見ない素振りで柔らかく笑う。
「さて、せっかくの熱燗がもうきっとぬる燗ですよ。飲みましょう」
 根夢がちゃぶ台に向かい、お猪口に酒を注いでいく。
 自分のお猪口にとっくりを傾けようとしたところで、その手を捕まれた。
「手酌なんかすんなって」
「ええ、あさきさんはいつも手酌じゃないですか」
「いいんだよ俺は。今回の功労者は根夢だ。おとなしく労われろよ」
 とっくりを奪われた根夢は素直にお猪口を手に持った。
 トトト……と音を立て、ほんのり暖かい酒がお猪口を満たしていく。
「じゃ、明日からの稽古は覚悟しておけよ」
「はい。よろしくおねがいします」
 二人はクスリと笑うと、一口目の酒を煽った。
 
   ・・※・※・・
 
 けたたましい蝉の音が聞こえる中、玄関先でカチカチと火打ち石の乾いた音が鳴る。
 根夢と榊は通気性の良い麻の着物を纏い、薬箱を背負う。
 あさきは相変わらず派手な着物だが、裾の後ろを帯に挟み、飛脚のように足を出していた。
「いってらっしゃいなのにゃ」
「夕飯はお素麺にするので、皆さん帰ってきてから作りますね」
 火打ち石を手にしたひな子が、大きな丸眼鏡の奥で目を細める。
「ありがとう。きちんと戸締まりをするんだよ。今日はちょっと遠くへ往診だし、あまり遅くなりそうだったら先に食べてしまっていいからね。それから――」
「何か危ないことがあったら眞竹さんへですね。大丈夫ですって」
 少し困った様子で笑うひな子に、榊は苦笑いで返す。
「いやぁ、すまないね。若い娘さん二人を長時間置いてけぼりにするのは心配で……今日はあさきも連れて行ってしまうし」
「心配ないにゃ! アズキは榊さんの弟子にゃ! ちゃんとお家隠すにゃ!」
「そうかい? うん、そうだねアズキ。頼んだよ」
 中川の事件後、アズキは少しでも根夢の役に立ちたいと榊に結界の貼り方について指導を求めた。
 まだ妖物としても猫としても若く子供のようなアズキに、術を教え仕事を手伝わせることを最初は榊も躊躇っていた。しかし、アズキの熱心さに根負けし、少しずつ自分の結界術を教え込むこととなる。
 まだ出来ることは少ないが、この数ヶ月で元々ある結界の力を強めるくらいのことは簡単に熟すまでになっている。
 元々ある結界。それはこの家全体に榊が仕掛けている結界だ。
 家の中央にある金木犀の木を媒体に、榊の霊力を流し込むことで効果をなすようになっている。
 故に榊があまり遠くへ離れてしまうと力が弱まるのだが、その代わりをアズキが務めることが出来るようになったのだった。
「お舟に乗ったつもりで行くにゃ!」
「それを言うなら大船だ馬鹿猫」
「むっ、馬鹿じゃないにゃ!」
 茶々を入れるあさきに、アズキがわかりやすく頬を膨らませる。
「あーもう、あさきさん余計なこと言わないで。アズキ、ごめんね。後はよろしくね」
「サンマ一匹で許すにゃ」
「いや、今は時期じゃないから無理だよ」
「むー……じゃあ美味しいお魚なら何でもいいにゃ」
「わかった。あさきさんに買ってもらうから、しっかりお仕事頼むね」
 そう言って根夢はアズキの頭をなでると、アズキの喉がゴロゴロと鳴る。
「じゃあ、行ってきます」
 三人が家の敷地を出ると、家からは明かりが消える。
 人の気配も感じず、シンと静まりかえっている。
 榊は満足そうに頷くと、二人と共に歩き出した。
「さて、あさきには何の魚を買ってもらおうかね」
「は? 本気で言ってんのかよ。嫌だからな」
「何言ってるんですか、また帰ってからアズキと喧嘩したいんですか?」
「は~? めんどくせえな……。わーかったよ何でもいいんだろ。根夢が食べたい魚なら買ってやる」
「よし、じゃあそうしましょう。榊さん今の時期だと何が美味しいですかね」
「そうだね……」
 そんな他愛のない会話をしながら三人は渡し舟の桟橋に向かい歩いて行く。
 中川の一件以降、たまに小物の妖物退治を依頼されるものの、これといって大きな問題もなく日常が過ぎていた。
 けたたましい蝉の音が川のせせらぎと混ざり、舟に揺られる三人を見送っていた。
 ――――「一章 巫山之夢」 完

あとがき

これにて1章完結です。
1日の15日の定期更新も一旦お休み、不定期にポロっと何か書いていくつもりです。
ご無沙汰している空木くんや石楠花さんの話も書きたいし。
一度ここまでのを本にもしたいなーとか。
ここまで読むとお察しの方はお察しかと思いますが、マナさんが書くものは大体BがLな感じのものばかりです。
なのでアレがソレなアレしてるところとかも追加した本出したいなとか、妄想していたりもします。
いつになるやらですが。
ということで、続きの違う事件なんかはまた書き貯めたら連載しますね~

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