わくらば【後編】


 女が一人、薄暗い部屋で脇息に身を預け、項垂れている。
 脇息には螺鈿の細工が施され、纏っているのは一の衣を欠いた紅の薄様うすようかさね、高貴さの漂う佇まいが、いかにも雅だった。 
 女の見つめる先には香炉があった。
 火櫃の側に置かれた香炉は煙をくゆらし、その内にぼんやりと橙の、小さな火を灯している。その香炉のように女も、部屋の中で、いまだ小さな火をその身に抱えくすぶらせていた。
 唐絵の描かれた屏風の手前には衣架が置かれており、そこには濃緋色こきあけいろの唐衣がかけられていて、香炉から流れる煙はその上を這うと、命を終えるかのように消えていく。
「最後の花が散ってから、もうどのくらい経ったのかしら……」
 女は、煙の一塊が息絶えるように消えるのを見届けて、手元にある薬箱の蓋をあけると、一番手前の円い小箱を取り上げた。
 小箱をあけると黒い漆が塗られた小箱の内側には、朱い漆が塗ってあり、中には甘葛煎あまづらせんと小さな木匙が入っていた。甘葛煎とは、ツタからとった樹液――みせんを煮詰めて作る甘味である。女はこれを口にするのが好きだった。
 蓋を置いて木匙を手に取り、甘葛煎をすくい上げて一口含むと、女の頬が少し緩む。
「松葉、紅葉。来てちょうだい」
 女が名を呼ぶと、侍女が一人、襖障子をあけて入ってきた。
 侍女と共に入ってきた光に少し目を細め、小箱を薬箱にもどしながら、女は聞く。
「あら、松葉はどうしたの?」
 垂れ髪に茜色の小袿を着た年若い侍女は、その声に襖障子をしめながら表情を少し曇らせた。
「……それが、ここのところお館様のうなされようがひどく、瘴気が溢れ、松葉はお館様のお側に侍り、お加減をみてございます」
 気にする素振りもなく女は、そう、と相づちをうつ。
「襖障子をあけ放して、中庭が見えるように御簾をあげておいて」 
 女は侍女に申しつけると、膝行しっこうして、部屋の中を衣擦れの音をかすかにたてながら、火櫃のところまで行き、両手をかざした。
 侍女は中庭に面した南廂の御簾をあげ、すぐさま戻って女の側まで来て座ると、鉄箸をとり、炭を整える。
 女は、炭が鉄箸で転がされるのを見ながら、
「……風が入ってくると、寒いわね」
 と呟く。
「やはり、御簾はおさげしましょうか」
 侍女が聞くと、女は、いいえ、とこたえてから、何が琴線に触れたのか、しばし幸せそうに火桶の中の炭が火をはらむ様を見つめていた。
 少しして、火を見るのに飽いたのか、女が言う。
「紅葉、沓を用意してくれる? 中庭に出たいの」
「かしこまりました」
 紅葉はいそいそと部屋を出ていった。
 その背を見送ったあと、女は中庭を見やって、ため息をひとつついた。
「ここのところ、代わり映えのないこと……つまらないわ」
 ひらけたその景観には、様々な樹木が目に映ったが、あるものは葉を落として貧相な枝を寒風に揺らし、またあるものは葉が茂っていても、その緑は精彩を欠き、なんとも侘しい様子だった。
 中庭は広く、池があり、そこには小舟が浮いているのが見えた。池には中島があり、そこに至る朱色の反橋が侘しい景色にたった一つ明るい色を与えていたが、その朱色も、いささか色褪せて見えた。
「まったく……あの子が時森をあちらへ呼びもどすようになって時も経つのに、春の訪れる兆しもみえやしない」
 ぼやくように言って、またひとつ大きくため息をついた。
 少しして、紅葉が沓の用意が済んだのか、もどってきた。
「ささ、姫様」
 そう言って紅葉は、衣架に掛けられていた唐衣を両手でとり、繊細な手つきで女の身体に這わせ肩に掛けると、女はゆっくりと袖を通した。
 どうぞ、と紅葉は女の立ち上がるのを手助けせんと手を差し出す。
 しかし女は、よい、と一言い添えて立ち上がると、中庭へとゆっくりとした動作で歩を進めた。
 紅葉の手を借りて沓を履き外に出ると、寒風が裾をひらりと揺らした。
 その刹那。
――かららーんからーん――
 と大きく、屋敷を包むように高く澄んだ音色が響いた。
 女は空を見上げ、 
「あら、外で何か起きているのかしら」
 と、少し首をかしげて言うと、池の方へと歩き出した。
 女が池の畔まで来ると、それに合わせるように小舟が近づいてきた。
 小舟には白木で組まれた鳥居がひとつ建っており、その前には直径が四尺もあろうかという神鏡が備え付けられていて、神鏡を支える神鏡台には、草木のうねるように伸びる様が浮き彫りされていた。
「外を、見せてたも――」
 女が神鏡に向かってそう言うと、神鏡に映された女の姿が滲むように消え、狂躁に沸く往来が見えた。往来では、人々がぶつかり合っては押し合って、逃げ惑っていた。
「まぁまぁ、これはまた、ごちゃごちゃと」 紅葉が困ったように、
「姫様、外の穢れは身に障るのでは……」
 と、女を気遣うが、女は口の端を歪めるとと笑って、袖で口を隠しながら呟いた。
「この私が、穢れると」
 紅葉はそれを聞くやいなや、申し訳ありませぬ、そう言って頭を垂れて一歩下がる。その一言は、紅葉を萎縮させるには十分だった。
 なぜなら、思わず昔のように小言を言ってしまったが、紅葉はよく理解していたからだった。
 女は穢れなど、気にかけはしない。それは、いまや女自身が穢れの権化であるからだった。
 この屋敷の主、その溢れんばかりの邪気や瘴気とて、女にとっては、髪を乱して吹き抜ける春風のようなものなのだ。
「……こう過ごしていると、忘れてしまうわね。私たちがあやかしだということを。人であった自分を手放してしまってから、どれほどの夜を越えてきたのかも、もうわからぬ程だと言うに…………」
 女は顔に寂しさを滲ませる。その表情を目にして、紅葉は悲しそうに顔を伏せた。
 女は、目の端に紅葉を映すように一度顔を横にむけ、もうよい、と呟くと、神鏡の映しだす街を改めて眺めた。
 そして、今度は瞳を閉じ、神鏡に語りかけるように言う。
「聞かせてたも――」
 すると、先ほどの美しい音色がそうだったように、塀の巡らされた屋敷の四方から、街の雑踏が、人々のざわめく声がひっきりなしに聞こえるようになった。
「まぁ、やかましい」
 紅葉は耳を袖でおさえながら、顔をしかめた。
 すると、
「輝密のお店までもう少しね」
 側近くに居るように、息の上がった、しかし、鈴を転がすように愛らしい声が響いた。
 女には、その声に聞き覚えがあった。時森を気安く呼ぶ、あの娘の声だ。
――たしか、あせびといったか
「そうですね。店に着いたら、まず番頭に事情を説明しなければ……」
 男がこたえた。今度はすぐに誰の声かわかる。
――三屋の家が拵えた五人目の志乃輔、名は直政
「なにをしているのかしら」
 女はほんの少し楽しそうに呟いた。
 神鏡は、いまだ、押し合う人々の波を映している。
「なにやら、何か起きたあとのようだけど……でも、これでは何が起きたかなど、こちらにはわかりもしないわね……」
「さようでございますね。では、寝所におもどりなられませ」
「……もどったとして、とくにすることもありはないわ。もう少し眺めていましょう?」
 女が神鏡の映し出す外の世界に執心するのを見て、
「では、こちらに胡床をご用意いたしましょうか」
 と紅葉は女に伺いを立てた。しかし、神鏡に視線を注ぐ女には、もう聞こえていないようだった。
 紅葉は少しの間、女の楽しそうな横顔をみつめ、少し微笑むと、女を残し寝殿に戻っていった。
 
      §§§§§§§§
 
 人混みを抜けて、酒々井家の営む薬種問屋、酒々屋の前まで辿り着くと、街は橙色に染まり始めていた。着崩れた着物を直しながら、あせびは口をとがらせた。
「押し合いへし合いなんだもの、ひどい目に遭ったわ」
 あせびの文句を聞きながら、直政は抱えていた木箱をゆっくりと降ろすと、頬をふくらまし大きく息を吐いた。
「輝密のほうはどうなったかしら。あの二人なら滅多なことにはならないだろうけど」
 あせびが少し不安気に言うと、直政は、
「輝密はともかく。千代美丸がいれば、力押しでどうとでもなるでしょう。いざとなれば、千代美丸が輝密を背負って逃げますよ」
「……ひどい物言いね。輝密が聞いたらきっと泣くわよ」
「可愛くもない泣き真似でしょう」
 そう直政が言い放つのを聞くと、自分だけまじめに心配するのが馬鹿馬鹿しくなって、あせびは鼻白む。
「……それこそ、聞いたら千代美丸が怒るわよ」
 あせびが独りごちると、店の中から箒を持って、まだ十二かそこらの丁稚が出てきた。
 利口そうな丁稚は、二人を目に留めると、
「あせび様、お帰りなさいませ! そちらは……五代目志乃輔さまですね。お待ちしておりました!」
 身体を二つに折るようにしてお辞儀する。そして、箒を一旦壁に立て掛けて店に戻っていった。丁稚は店に入ると、上の者に取り次いでくれているようだった。
「とりあえず、中に入りましょ」
 あせびに促されると、直政は相づちを打ち、木箱を背負い直して店の中へと入った。
 中に入ると、薬種のかもす独特の匂いが漂っていた。店の者はいそいそと数多ある棚の引き出し一つ一つを確認しながら、帳面をつけている。
 直政達が、丁稚が会釈して外に出て行くのを見送って、視線を店の中に戻すと奥から年配の男がいそいそと出て来た。
 男は目の前に正座すると、
「お待たせいたしました。あせび様おかえりなさいませ。そして……ご無沙汰しております、五代目志乃輔様」
 と深々と頭を下げながら言った。
 番頭の男は名を庄吉といい、年季の入って風合いの落ち着いたこげ茶の単衣に、上布の紺の羽織を羽織っており、白髪の目立つ髪を総髪にしていた。現酒々井家当主の覚えめでたく、この横濱の店を預かって今年で十四年程になる。輝密の幼い頃には、輝密の兄、兼定の教育係として、諸々の指南をしていたこともあった。
 庄吉は姿勢をもどし、少し直政達の後ろを窺うようにしてから、
「さきほどから外が少し騒がしいようですが、若旦那はご一緒にお戻りでは……」
 と眉をひそめて口にした。輝密は厄介ごとに自ら首を突っ込むきらいがある。
 眉間の皺をいっそう深くした庄吉を気遣うように、直政は、
「ご心配には及びませぬ。さきほど港にて何事か起き、輝密殿は千代美丸と共にその様子を伺いに行かれた」
 としっかりとした口調で告げた。
 庄吉は、眉間の皺を少し浅くすると、軽く一息吸ってからため息をつく。
「さようでございますか。千代美丸が一緒であれば、若旦那もご無理はなされませんでしょう。……少々、安堵いたしました」
 と言って、庄吉は下女を呼ぶと、白湯を用意するようにと言いつけた。
 あせびはふくらはぎを少し揉んでから、
「腰掛けさせてもらうわね、少しくたびれちゃって」
 と言うやいなや、帳場に腰を下ろすと一つ大きく伸びをした。
「お疲れのご様子ですね。騒ぎの中こちらまで来られるのは、よほど大変でしたか」
 しかし、庄吉がそう言うのにかぶせるように直政が、
「人の波もすぐに引いておりましたよ。それにしても……もう少し慎みをもったほうがいいんじゃないですか? あせびさん」
 と言うと、あせびはそんなことには頓着せずに、直政に返す。
「志乃輔くん。それよりも、庄吉さんに聞くことと、お願いしないといけないことがあるんじゃない?」
 直政は、わかってます、と小さく呟いて居住まいを正すと、
「……庄吉殿、弓はどちらに」
 と庄吉に聞く。
「弓、でございますか」
 庄吉は千代美丸がするように、目線を上に腕を組むと、記憶を辿っているようだった。
それを手伝うように直政は付け加える。
「ええ、三週間ほど前に、輝密殿に預けたのですが」
 庄吉はしばらく天井を眺めていたが、捜し物を見つけ出したかのように、顔をほころばせると、視線を直政に戻しこたえる。
「たしか、若旦那が布で包み、奥の間に立て掛けておられたかと」
 直政は、それを聞いて、庄吉に切り出す。
「その弓を用いて時森を……いや、我が三屋家が神器、覡狂骨かんなぎきょうこつを顕現させ、はらいの儀式を行いたい。そのための斎場ゆにわとして、場所を貸していただきたいのだが」
 それを聞いて、庄吉は少しうつむくと、また眉間の皺を深くさせた。
「それは……時森様の穢れをこちらで祓うという事でございますでしょうか? でしたら、三屋家とはご懇意にさせていただいておりますが、この店を預かる者として、お力になることはできかねます」
「あら、輝密はそうするつもりだったようだけど」
 聞くに任せていたあせびが口を挟むと、庄吉は少し険のある言い方でこたえる。
「あせびさま、若旦那はこの店の主ではございません。この店は、私が、大旦那様より任されておるのです。それは、若旦那もわかっておいででしょう……おそらく、若旦那のことですから、私を籠絡する策でもあるのでございましょうが……」   
 そう言って、庄吉は直政に頭を下げる。
「申し訳ありませんが、お断りいたします」
「しかし、それでは…………」
 直政が窮し言葉を探していると、外でざわめきが起きた。
 あせびが気にするように立ち上がると、外で女の叫ぶような声が聞こえる。
「何やってんだい、そこの丁稚! はやくお逃げよ!」
 通りの真ん中では、箒を両手で握りしめて恐怖に固まった丁稚の前に、大柄な男が一人立っていた。男は首から肩までが裂け、血をぼたぼたと滴らせている。そして、白目をむき何事かを呟いていた。
「じゃま……じゃまだ…………」
 男はすでに虫の息のようだったが、息も絶え絶えにそう言うと、腕を大きく振り上げた。
 すると、あせびが店先まで駆け出るやいなや、胸元に手をいれ苦無くないを引き抜き、そのまま男の振り上げた腕めがけて投げた。
 苦無は男の腕に命中し突き刺さったが、その腕は非情にも、丁稚に向かって振り下ろされてしまった。
 しかし、その腕は丁稚を傷つけることはなかった。
 丁稚の手から箒が震えて抜け出し、振り下ろされた腕を受け止めのだ。箒は丁稚の身代わりとなって、竹のはじける音とともに二つに折れた。そして、その穂先は独りでに、男の頭に向かっていって、その身を叩き付けるように男にぶつかった。
 その衝撃で、男は少しよろけて一歩下がる。
 すると、男は空を見上げ、獣の咆吼のような叫び声をあげた。それは、誰かに助けをもとめる悲鳴のようにも聞こえた。
 その声にあせびは一瞬ひるみ、丁稚はさらに恐怖し、いまだ動けずにいた。
 その時、直政が動く。
 直政は、ひるんだあせびの横を、木箱を背負ったまますり抜け、丁稚の元へと走った。
 男は視線を丁稚に戻し、苦無が刺さったままの腕をふたたび振り上げ、再度、丁稚に襲いかかろうとする。
 直政は走りつつ己の刀に手を掛けていたが、一つのことが頭をよぎった。
――あせびさんの投げた苦無には、妖物には効果覿面の薬が塗ってあったはずだ。だというのに、あの男は腕を振り抜いた。だとすれば、妖物を討滅するための、この刀で斬ったところで止まるだろうか。しかし、尋常ならざるこの男を普通に斬りつけたとしても、止まるとは限らない
 一瞬の迷いに、前へと運ぶ足が遅れる。
 しかし、男の腕が丁稚に向かって振り下ろされる直前、丁稚は悲鳴をあげ、直政はその声に己の迷いを消した。男と丁稚の間に身を滑り込ませ、丁稚を抱きかかえるようにかばう。
 木箱の中から、からんからん、と場にそぐわぬ美しい音が奏でられるように聞こえた。
 男の腕はその音にかまわず、直政と丁稚に振り下ろされる。
 しかし、振り下ろされたその腕が直政の背負った木箱に触れた途端、木箱の扉の隙間から黒い煙が吹き出し、男の腕を瞬時に溶かした。
 そして、吹き出した煙は、一瞬で人の腕の形をとると、その指先で、男の鼻先をぴんとはじく。
 すると、今度は男の身体から、人の形をした白い靄がすうっと抜け、それが風に散らされるように消えると、同時に黒い煙が形を成した腕も霧散した。
 男はそのまま動かなくなり、直政が丁稚を抱えたまま振り向くと、男はその姿勢のまま、炭が燃え尽き灰になるように、ほろほろと崩れていった。
 丁稚が腕の中で、瞳から涙を溢れさせ大きな声をあげて泣き始めると、直政は身体の力を抜き、安堵して肩を落とした。
 
      §§§§§§§§
 
 鏡の向こうではどうやら狂躁はやんだようで、神鏡には、直政達が入ったらしい店の、活気に溢れた様子が映し出されていた。
 胡床に腰をおろし、女は紅葉に言う。
「どうやら薬種を取り扱っている店のようだけれど、ここは前にもたしか、時森が来たことがあった気がするわ…………今もきっと、店の中にはいろんな薬種の香りがしているのでしょうね」
「ええ、きっとそうでしょう。異人もたくさんいる街のようでしたし、珍しい物も中にはあるのでございしょう」
「まぁ、それは面白そうだわ。あぁ、私も行ってみたい」
 それを聞いて、紅葉が諫めるように言う。「おやめくださいね。姫様が今外に出ては一大事になりましょう」
「……わかっているわよ、そんなこと。それでも、時森が向こうに呼ばれれば、あの子を通してすこしは感じることができるのだけれど」
 そう言って、女は寝所の方を見やってため息をついた。
 神鏡から聞こえ来る様子では、直政達が店の中で、なにやら時森について話をしているようだった。
 どうやら、時森の顕現と浄化のための儀式、そしてそれを執り行う場所について、直政と番頭の折り合いがつかないようだ。
「松葉はもう少し、塗籠にこもることになりそうね」
 女はそう言うと、また鏡の向こうを見つめた。途端に、女は顔をしかめる。
「なにか、近づいてきているようね」
 女になにかが見えたわけではなかった。しかし、いびつな何かが、直政達に近づくのを感じた。
 すると、やはり外では一騒動、起きたようだった。
 神鏡に童が映し出されると、それを襲おうとする男がいる。
 男はいまだ人で在ることを手放してはいなかったが、もはや猶予は残されては居ないと、女から見れば明白だった。
「あわれなこと……魂を引きはがされてしまったようね」
 そして、鏡の映す、あせびの苦無を投げる姿を見ておかしそうに言う。
「毒を感じるけれど、それで、その男の腕が止まるわけがないわ」
 女の言うとおり、男の腕は止まらなかった。しかし、どういうわけか振り下ろされた男の腕は童子の持っていた箒によって受けられ、
箒の穂先が男に自らぶつかっていく。
「おもしろい! ……そうだわ、思い出した。この店の跡取りの輝密とかいう子の力ね。ああして、家の者を守っているのだわ」
 女は面白そうに見物していたが、向こう側の男が咆吼をあげ、それがこちらに響き渡ると、悲鳴が屋敷の方から聞こえた。
「……せっかく興がのってきたというのに………………松葉」
 女が名を呼ぶと、紅葉の隣に、黒い靄がつむじ風のように逆巻き、それが霧散すると同時に侍女が姿を顕した。侍女は垂れ髪に小袿と紅葉と似たような姿だったが、小袿の色は落ち着いた柳色で、紅葉よりも年かさがいっているように見えた。
「姫様、時森様が今の声のせいか、目をお醒ましになりかけてございます」
 それを聞いて、女は立ち上がる。
 すると、からんからん、とまた美しい音が屋敷をつつんだ。
 鏡の向こうでは、直政が童をかばい男に背を向け、男の腕が直政に――木箱に振り下ろされるところだった。
「…………痴れ者が」
 女が呟き、不快そうに顔を歪めると、女の周囲から色が一気に失われていく。色が失われると共に、時が止まったかのような、そんな感覚が生まれた。
 神鏡に映し出された、向こう側までが色彩を失っていき、男の腕は勢いを失いゆっくりと直政達に迫っていく。
 女は困ったように首を横に振り、手を神鏡に伸ばしながら、声の届くはずのない者に向かって語りかけた。
「責めはすまい。おまえはそこに希望を見たのでしょう。失ったものを、また与えてくれるやもしれぬと、最後に見る白昼夢の中、香りを頼りに、懸命にここまでやってきたのね……」 
 女の足下から周囲に影が広がる。広がった影は、暗く、黒く、色を濃くすると、水飴のようにねっとりと波打ち、そこから湧き上がるように浮き上がって伸びては切れ、黒く大きな丸い塊となって浮遊した。
 気づけば女の周囲には、それがいくつも浮き上がっている。
「でも、おまえはもうここまでよ。楽におなりなさい……」
 女がそう言うと、浮いている黒い塊が水鉄砲を飛ばすように、神鏡に向かって幾筋も黒い瘴気を放射し、それが神鏡へと入っていく。
 鏡が黒く染まると、女は目を閉じ、親指と中指で円を作る。親指で抑えつつ中指に力を込めると、遠い昔、碁石をそうして遊んだように、はじいた。
 女が目を開けると、浮いていた黒い塊は、靄となって霧散し、周囲は色を取り戻していく。また見えるようになった神鏡の向こう側では、男が灰となり崩れ落ちるのが見えた。
「姫様、お見事にございます」
 松葉と紅葉が声を合わせて言うと、女はくすりと笑って、二人に言う。
「あの子と碁石を一緒にはじいて遊んだのを思い出したわ。あの頃は、毎日がとてもあたたかくて、たのしかったわね」
 女は微笑む。瞼の裏に浮かんだ思い人に似た少年の笑顔は、今もその胸に温かかった。
 女は裾を翻してきびすを返す。
「松葉、紅葉、時森のもとへ参りましょう」
 二人を伴い、女は寝所の方へと向かった。
 
      §§§§§§§§
 
 奥の間に通された直政とあせびの前で、庄吉が額を畳にこすりつけている。
「お二方、この度はうちの丁稚をお助けいたただき、ありがとうございました。まことに、感謝しても仕切れません」
 隣では、目を泣きはらした丁稚が小さな背を丸め、庄吉と同じように額を畳につけている。丸めたままの身体から、小さく、ありがとうございました、と声が聞こえた。
「わたしは役に立たなかったけどね。頭を下げられても困っちゃう」
「俺の方もですよ……おそらく、男の腕が木箱に触れた時、時森が目覚めかけて、扉から瘴気が溢れたんじゃないかな。男はそれにあてられてしまったのだと思います」
 直政がそう言うと、庄吉は顔をあげる。
「いいえ、お二方がいなければ、いま頃うちの子はあの箒のようになっていたかもしれません。あせびさまが飛び出て行かれなければ、箒が身代わりになってくれる猶予もなかったやもしれません」
 それを聞いてあせびは居心地悪そうに頭を下げ、庄吉の顔を上目遣いに見やる。
「そう言ってもらえてありがたいんだけど、怠慢だったと思う。苦無には神儺しだが塗ってあったし、男の尋常ではない様子に妖憑きかなにかだと早合点して、それでどうにかなると…………」
 神儺というのは、あせびの用いる秘薬だった。
 ある神を祀る村落の有する山でのみ採れる、シダに似た薬草から作られた薬で、あらゆる霊症霊病に覿面の効果があり、毒として用いれば悪鬼や祟り神にですらその力を発揮した。
 その薬草の形が羊歯しだに似ていたことからシダと称され、それに神儺と字を当て、神のすなるおにやらいと謳われたことで、神儺と書いてシダと呼ばれるようになった。
 しかし、神儺を産出していたその村落は、いまや失われており、その時、祀っていた神によって村落を含む山谷一帯が閉じられてしまった。そのため、現在は流通するものがほとんど無く、入手が困難になっており、値を付けられぬほどに貴重なものだった。
「……まだまだね、反省してる」
「いいえ、神儺といえば、いまや手に入らぬ貴重なもの。私とて、過去に数度お取り扱いさせてもらったことのある程度ですし、その時の値といえば、一介の町人には到底手の届かぬ物でございました。それを使ってまで助けようとしてくださったのでございます。ありがたく、お礼の言葉もございません」
 そう言って、庄吉はまた頭を畳にこすりつけた。 
「頭を上げてください。とにかく、我々は当たり前のことをしたまでですから……」
 直政がそう言うと、障子を開ける音と共に、「そうそう、店の者を守るために、あらかじめ箒に命を吹き込み守護を命じておいたり、何事か起きた時のためにと腕の立つ薬師を二人も店に送っておいたりとかね。当たり前の事をしただけさあ」
 と、輝密があらわれ庄吉に恩を着せるように大仰な口調で言う。
 庄吉は跳ねるように姿勢を正すと、
「坊ちゃん! 冗談じゃありませんよ! 丁稚がどんなにか恐ろしい目にあったか……」
 
「恐ろしい目にあっただけですんでよかったじゃないか。今日は、何人も死人が出たようだよ」
 庄吉は輝密を睨むように非難の目を向けたが、輝密はのほほんとこたえた。しかし、その脳裏には、倒れた人々と、最後まで役目を全うしようとしていた邏卒の背中が、焼き付いていた。
 直政は、死人、その言葉に眉間に皺を寄せた。
「あの一騒動、桟橋の方はそんなにひどい有様だったのか?」
 直政が聞くと、
「かわいそうな人が頑張って、かわいい子が頑張って、鬼が二人頑張って、あとふたり強そうな人が来たけど、たくさん死んじゃってた。あ、ただいま」  
 後から奥の間に入ってきた千代美丸が、眉根をひそめる直政に要領を得ない答えを返した。
「……おかえりなさい、千代美丸。ご挨拶はしっかりせねばならないと教えたでしょう」
 庄吉が千代美丸を咎めると、
「ちゃんと、ただいまって言ったのに……庄吉じいちゃんいじわる……」
 千代美丸は拗ねるように瞳を伏せた。庄吉は、たまに里に帰ってくる孫のように千代美丸を想い、可愛がっていたが、礼節にはうるさかった。
「ちょび、ただいまは最初にちゃんと言わないといけないよ。じいは意地悪したわけじゃない」
 不機嫌そうにどかりと腰を下ろした千代美丸に、輝密は一言い添える。
「え、輝密はただいまも言ってないのに」
 さらに不服そうに千代美丸は口をとがらせる。
「あれ? ちゃんと言ったよ。聞き逃していたのかい? まったくちょびはおっちょこちょいだなぁ」 
「……ぜったい言ってなかった」
 なおも食い下がる千代美丸のことを、そんなことは置いておいて、と切り捨てて輝密は言う。
「じい、お返しというなら、ちょいとばかり場所を貸しておくれよ」
 庄吉は大きくため息をつく。
「坊ちゃ……いえ、若旦那……」
「なぁに、大したことじゃない。三屋家の神器、覡狂骨こと早蕨時森を顕現させ、神器にたまった穢れを払うだけさ。志乃輔がいて弓もある。我々もいるんだし、本日二度目の大騒動なんてことにはなりゃしないさ」
 そして、輝密は咳払いをして表情を消した。庄吉を上から冷たく見下ろすようにして話を続けた。そこには得体の知れない、凄みのようなものがあった。
「……あの日、あの時のことを思い出しておくれ。私たちには返せぬほどの恩がある。私たち、いや、私は……時森様の在られたおかげでここにいるのだよ」
 それを聞くと庄吉は諦めるように視線を落とし、一呼吸すると背筋を伸ばした。そして、一時、輝密を見つめると、かしこまって頭を下げた。
「わかりました。この店の主として、そのお話、承りましょう」
 庄吉は直政に向き直り、再度頭を下げる。「五代目志乃輔、三屋直政様……この横濱酒々屋ささやの番頭、庄吉が、承らせていただきます」 
 直政もまたその言葉を聞き、かしこまって頭を下げる。
「……ご配慮、感謝いたします」
 話のついたのを見届けて、輝密は隣でへそを曲げそうな千代美丸の頭をぽんぽんと叩いて、
「ちょび、拗ねてないで、時森さまをお呼びする準備を手伝っておくれ」
 千代美丸は輝密をうらめしげに睨めあげると、叩かれてつぶれた髪に手櫛をいれて直しながら、わかった、と気のない返事をした。
 
      §§§§§§§§
 
 寝所に着くと、塗籠と寝所を結ぶ奥の襖障子が、見るも無惨にばらばらになっており、そこから、塗籠のなかに誂えられた御帳台が見えた。 
 帳の隙間からは黒い瘴気が溢れ、中の様子はうかがい知れなかった。
「きっかけは先ほどの咆吼かと思いますが、怨嗟によって練り上げるように妖気を放ち、妖気は邪気、瘴気に変わり一気に吹き出してございます」
 松葉は、飛び散った襖障子のかけらを女の歩みの邪魔にならぬよう拾いながら、口惜しそうに言った。
「松葉が耐えられぬほどにか…………」
「まこと、面目のない」
 よい、女は言うと、溢れ出る黒い瘴気を気に留める素振りも見せず御帳台の帳をあげる。 帳をくぐると、据えられたしとねには男がひとり、仰向けに横たわっていた。
 男は苦悶の表情を浮かべ、唇を小さく動かし名を口にする。
「……志乃輔…………」
 錆色の長襦袢をまとい、幾枚もの袿を掛けられている。長めの黒髪は深い森を思わせるように深緑に艶めいていたが、その肌は血色を失い、伏せられた長い睫毛が憂いを誘っていた。
 熱に浮かされるように、男は何か譫言を口にしては、その周囲に瘴気を溢れさせている。
「あわれなこと」
 そう言って女は膝をつくと、褥ににじり寄った。そして、溢れる瘴気を袖で散らし、男の額に白く小さな手を伸ばす。
「時森……」
 憐憫の情が、女の眉の間にみてとれた。
「かわいそうに……抱えた怨嗟に身を焼かれて…………」
 伸ばした手が時森の額にそっと触れ、浮いた汗をぬぐうように額をなでた。
「……お前をこんな風にした者達は、いったいいつまで、この編つぎ遊びに興じるつもりなのかしら…………」
 時森は額に置かれた手の冷たさに表情をゆるめる。
 溢れる瘴気は、その勢いを弱め、時森の顔からは苦悶の色が薄れていった。
 女は、すう、すう、と寝息をたてはじめた時森を眺めながら、手を規則正しく上下する胸にずらし、とん、とん、と寝息に相づちをうつようにやさしく叩く。
「おさまったようですね」
 紅葉が胸をなでおろす。
「……ただの気休めよ。この子の引き受けてきた穢れ、己自身で抱え込んだ怨嗟は、自ら祓わなければ……」
 女の言葉に松葉はうつむき、
「それもこれも、すべてはあの破戒僧達と三屋家の者どもの……」  
 と絞り出すように口にする。
「――およし」
 女が松葉の言葉を遮った。
 しかし、それを耳にして、
「みつや……三屋……憎き三屋…………」
 と時森が、うっすらと目を開けて唇を動かした。
「時森、まだ、誰もお前を呼んではおらぬ。今しばらく、お眠りなさい」
 女は言い聞かすように時森に言う。
 すると、視線を天井に投げたままの時森の身体が、ふわりと浮き上がった。幾枚も時森の身体に掛けられていた袿もまた、時森に付き従うようにふわりと舞い上がる。
「ああ、なんということ!」
 松葉は己の失態に恥じ入るように声を上げた。
「……許さぬ。返せ……志乃輔を返せ……」「時森、もうじき志乃輔がお前を呼ばわる。しばし、心安んじてお待ちなさい」
 女は言いながら、浮遊する時森に触れようと手を伸ばす。しかし、女の言葉は時森の耳には届いていないようだった。
「志乃輔……志乃輔はどこに……名を……名を呼んで……」
 縋るものを失った子供のように、か細く震える声はひたすらに哀れだった。
 時森は目の焦点も定まらぬまま、辺りを見回す。そして、その瞳に女をうつした途端、目に怒りの火を走らせ、叫んだ。
「大妖腐り姫! その眷属ども! 邪魔をするな!」
 時森が、女の触れようとする手を、手の甲で払いのけるように叩いた刹那、時森は尋常ならざる妖気を発し、邪気と瘴気のないまぜになった突風が起こった。
 女は咄嗟に、払われた手で黒く透明な壁を作り、結界を張った。しかし、その壁は時森の放つ邪気と瘴気に耐えきる事ができず、硝子のように割れて砕けた。
 風に乗った邪気は女の袖を引き裂き、瘴気は露わになった腕の肉を削いで、溶かした。
 そばに控えていた松葉と紅葉は、巻き起こされた風に身を引き裂かれると、黒い靄となって霧散してしまった。
 女は骨が剥き出しになった腕を伸ばしたまま、時森に言う。
「思い出しなさい、時森。お前と私は一蓮托生。お前が転変したとき……お前が私を飲み込んだのでしょう?」
 女は静かに微笑むと、両腕を捧げるように時森に向かって伸ばす。
「……そしてお前は、己が怨霊と化す前に、数多の大妖を鎮めたように、祟り神の穢れを引き受けたように、私を祓い鎮め、私の現世に置き去りにしてしまったものをも思い出させてくれた…………」
 女の言葉を聞き、時森の目からは怒りが消え、表情が陰った。
 唇を震わすように動かして、時森は女の名を呼ぶ。
「藤御前…………」
 女はそう呼ばれると時森に笑いかけた。
 そう呼ばれるのはどれほどぶりだったろうか。それは、もうずっと前に女が無くしてしまった己の欠片だった。それを遠い昔に時森によって思い出させられた時、女は大妖腐り姫ではなくなったのだ。
 そして、いまではここ――時森の中に州浜を作り、雛遊ひいなあそびに興じている。
――雛遊びなどと言ったら、松葉も紅葉も、時森も、怒るだろうか 
 藤御前はすこし寂しい気持ちになったが、それをおくびにも出さず、正気を取り戻したらしい浮遊したままの時森の腕を、骨になったままの手でつかんだ。
 藤御前は、抵抗のないのを確かめてから、時森を引き寄せ、抱き留めた。
 気がつけば、女の後ろには松葉と紅葉が頭を垂れて控えている。
「志乃輔に、逢いたい……」
 浮力をゆっくり失うと、女に抱き留められたまま、時森は嗚咽を漏らした。
 時森は何度も何度も、志乃輔、と口にしながら、ただ泣いた。
 
      §§§§§§§§
 
 薬種問屋酒々屋の奥座敷は、急場しのぎではあるが、斎場として整えられつつあった。
 街には夜の帳が降り、辺りからは虫たちの声だけが聞こえている。開け放たれた部屋には夜風が通い、昼の暑さが嘘のように涼やかだった。
 部屋には燭台がいくつか置かれ、据えられた蝋燭には灯が踊り、部屋の輪郭を色濃く浮き上がらせていた。
 部屋の中央には、夜風に揺らめく灯りを受けて黒々と影を差し、その身をさらすものがある。それは、直政の背負っていた大きな木箱だった。
 部屋には赤い糸が張り巡らされ、その糸の所々に、まじないの施された符が垂れ下がっていた。
「結界の準備も、これでおしまいです」
 直政は、手に持った符を糸に括り付けると、後ろで様子を覗っている輝密達を振り返る。
「おつかれさま。糸を張るのが結構めんどうそうね」
「まぁ、確かにすこし面倒ですが……大事なことです。時森の状態がわるいので、おそらくこのくらいはしておかないと……」
「そうそう、準備は万端にね。万一なんてことになったら、じいに大目玉だよ」
 そういって、輝密はおかしそうに目を細めた。
「まじめにしてないと、庄吉じいちゃんにまた怒られるよ? 言いつけちゃおうかな」
「おっかないなぁ。やめとくれ」
 そう言って、輝密はくすりと笑う。
「……楽しそうだなぁ」
 千代美丸がそう言うと、輝密は、怖い怖い、とわざとらしく肩をすくめる。
「緊張感がないったら……私は、普通に、怖いんだけど」
 あせびは二人の遣り取りにすこし緊張をほぐしたようだったが、その声はすこし震えているようだった。
「もうだいぶ慣れはしたが、本当に、輝密たちといると……」
 直政は呆れたように言いかけ、それを途中で止めると、言葉にする代わりに息を吐いた。そして、直政は部屋の中央に置かれた木箱の前に立つ。
 木箱の一番上は蝶番で開閉できるようになっており、直政はその蓋を開けた。
 中にはたくさんの小瓶が入っており、そのどれもが薬品のようだった。
 直政はその中から、少し大きな小瓶とひさごを取り出した。
 小瓶には白く四角い結晶が入っていた。
「それは、なに?」
 あせびが訊ねる。
「塩です。これは丁寧に採塩されたものですので、すこし結晶が大きいですが……」
 そう言って、手のひらに塩を少し取ると、手を合わせて揉んで粉にし、それを手と腕になすりつけた。
 直政は、次にひさごの栓を抜く。すると、ふわりと酒気が鼻をかすめた。ひさごの中には神酒が満たされている。
「中はお酒?」
 今度は千代美丸が直政に訊ねた。
 直政は黙って頷くと、ひさごに口を付ける。そして神酒を口に含むと、唇をすぼめ、手と腕に霧状に吹き出した。
「何してるの?」
 と、千代美丸は首をかしげる。
「神酒を吹きつけているんだよ。瘴気を浴びた時のための備えだ」
「……なるほど」
 理解しているのかどうかはわからないが、千代美丸はもっともらしく頷いた。
 あせびは緊張した面持ちで、
「いよいよか……ねえ、輝密。時森ちゃん……大丈夫よね?」
 と不安げに輝密を見上げる。
「さぁてね。儀式が始まってみないと、なんとも言えないんじゃないかな」
「ときちゃんが怖いのやだなぁ」
 千代美丸はいまにも泣き出しそうに目を伏せる。
「大丈夫だよ。時森様があの時みたいに、私たちのことがわからなくなってしまっていたら、みんなで話してやればいい。私たちのなれそめやら、どんなに愉快に過ごしていたかやら、全部ね……」
 輝密は手を伸ばし、千代美丸の頭をぽんぽんと叩いた。
「そうしたらすぐに、思い出してくれるよ」
 輝密の言葉に、うん、と頷いて、千代美丸は伏せていた目を動かして輝密をじっと見ると、甘えるように輝密の袖を握る。
 輝密は、しょうのない子だねぇ、そう嬉しそうにぼやいて、また千代美丸の頭をぽんぽんと叩いた。
 あせびはそれを見て笑みをこぼし、ひとつ息を吐くと、表情を引き締め視線を直政に移した。
「そろそろ始める」
 輝密に視線を投げて直政は言った。その声音は心なしか固い。
 その声音の固さは、周囲の空気を張り詰めさせた。
「……わかった」
 輝密は頷き、小さな声でこたえた。
 あせびと千代美丸は部屋の隅――糸の張られた外側に正座し、木箱の前に立った直政に視線を注ぐ。
 輝密は床の間に立て掛けてあった弓を手にして、巻かれた布をほどき始める。
 弓が姿をあらわにすると、輝密は弓に語りかけた。
「たわみ、弦を張っておくれ」
 すると、弓は独りでに立ち、己の末弭うらはずから巻き付けられていた弦をふりほどくと、身体を屈めるようにたわませ、本弭もとはずに自ら弦輪を引っ掛けて、己が自身、弦を張った。
 自ら弦を張り終えると、弓は輝密の手に倒れ込んだ。
 輝密はやさしく弓を受け止めると、それを直政に手渡す。
 直政は弓を無言で受け取ると肩に掛け、木箱の前にしゃがんだ。
 そして、懐から鍵を取り出すと、木箱の扉に掛けられた和錠の側面に差し込み、開けた。 直政は鍵の差し込まれたままの錠前を懐にしまうと、観音開きになる木箱の扉に手を掛け、肺に空気をため込むように大きく息を吸った。
 直政は息を止め、輝密が結界から出てあせび達の元へ移動したのを見計らい、一気に扉を開け放った。
 すると、ほんの少し間を置いて、木箱から黒い靄がもうもうと広がり、張られた結界の中に薄く立ち込める。
 それは、瘴気だった。
――ぴしっぴしっ――
 結界が反応し、張りつめた紙を爪で弾くような音が、赤い糸に括られた呪符から響いた。
「直政、瘴気が思いの外濃い! 大丈夫か!」
 輝密が声を上げる。
――話しかけてくれるなよ。というか、その名で呼ぶな
 黒い靄に包まれる中、直政は輝密に心でそうこたえ、左手で弓把を握り、右手の親指を弦に掛けると少し弦を引き、離した。
――びいーん――
 弓は弦を振るわせ、周囲を揺らすように低く鈍い音を響かせた。
 直政のしたそれを、鳴弦めいげんという。弦打つるうなどとも呼ばれるが、邪気や穢れなどを払う魔除けとして、弓の弦を引いて鳴らすものだった。
 この鳴弦の所作は、直政が時森に教えを乞うたものだった。
 正式に行うならば、鳴弦の儀という儀礼となるが、儀式という形は取らず弦を鳴らすだけで穢れを払うのは、時森の最も得手とする巫覡としての技能だった。
 立ち込めていた瘴気が、響く音が消えていくのと共に薄まり、消えさった。
 直政は息を吐くと、毒気の消えた空気を鼻から思い切り吸い込んだ。
「少し、焦った……」
 直政がそう言うと、輝密が、
「焦ったのはこちらのほうだよ……」
 と、ほっと息を吐いた。
「……この弓があればだが、この程度なら問題ない」
 直政は手にした弓を見ながら言った。
 時森の弓は祝詞をしたためた和紙を幾枚も括り付け、術を施された特別なものであった。そのためこれを使えば、今回ほどの瘴気ならば、直政にも祓い散らすことは可能だった。
 しかし、瘴気を祓い安堵したのも束の間、今度は腐臭が鼻をついた。それは、木箱の中から漂ってきているようだった。
 輝密達は、その臭気に気づくと、部屋の真ん中、蝋燭の揺らめく火を受けて闇に浮き上がる木箱と、その前に膝をつく影を見つめた。
 直政は弓を傍らに置き、木箱の中を凝視している。
 そこに在るのは、人の骨だった。
 根無しの魂鎮めと呼ばれた巫覡、早蕨時森が遺骨である。
 その骨は錆色の長襦袢にくるまれ、膝を抱えて座るように木箱に押し込められている。
 長襦袢からのぞく骨は、白粉を塗ったように艶やかで、薄墨で文字が書き入れられていた。それは、他に類を見ぬほどの麗筆だった。見れば、書かれているのは慰みの言葉のようだった。
 直政は手を伸ばすと、箱の奥――遺骨の背側まで手を差し込み、優しく抱きかかえるようにして、長襦袢ごと木箱から取り出す。
 直政が折りまげられた遺骨と長襦袢を抱え上げ、畳の上に寝かせようとしたとき、正絹の生地を滑るようにいくつも骨が転がり落ち、ぶつかり合って、音を立てた。
――からん、からん、からん――
 その音は、どこか悲しく、美しい。
 輝密たちは息をのみ、その様子を覗っている。
 直政は畳の上にゆっくりと、長襦袢に包まれたままの遺骨を降ろし、さきほど転げ落ちた骨を拾うと、その上に置いた。
 拾い上げた骨には、茶色いものがこびりついていて、腐臭の原因はそれのようだった。
 よく見れば、それは脈を打つように蠢く。
――受肉が始まっている
 それを瞳に映し、直政は脂汗を流す。
 ここ最近、瘴気が漏れるなど予兆はあった。しかしたった一月ほどで、ここまで怨嗟が肉という形を取り、骨から表出するとは、受肉を危惧していた直政さえ思ってもいなかった。しかも、その肉は命を持つかのように脈動している。
 しかしこれは、以前あったような、何かを切っ掛けにして一気呵成に骨が肉を纏って実体を持ち、時森が怨霊として突如顕現するようなことにつながるものではないように見えたし、状況が逼迫しているようにも見えなかった。
「……志乃輔くん……大丈夫?」
 直政のただならぬ雰囲気に、あせびが声を掛けると、
「ええ……これから表出した怨嗟と穢れを祓い、時森を起こします」
 と直政はこたえ、傍らに置いた弓を手にする。
 そして、先ほどしたように弦を引き、二度、弓を鳴らした。
――びいーん、びいーん―― 
 弓が、括られた紙を揺らしながら、辺りの空気を振るわせた。
 すると、脈動する茶色い肉片が、陸にあげられた海老のようにぱしっぱしっと跳ねて骨から剥がれ、黒い靄を吐くようにして溶けて消えた。
 響く弦音が消え、辺りに静寂が戻る。
 直政は弓を再び傍らに置き正座すると畏まり、寝かせた遺骨に向かって、深々と礼をした。
 直政はゆっくりと顔を上げ、睨むように遺骨を見据えると、声を発した。
「そなたに、これよりしばらく役目を与える。……起きませい! 三屋が神器、覡狂骨!」
 いつの間にか、虫の声が止んでいた。
 辺りが静まりかえる中、直政は続ける。
「そなたの望むは三屋の知るところ。それは唯の一つ。三屋志乃輔の仇討ちである。さぁ、そのためのお役目、いま与えようぞ。起きませい。起きませい」
 直政は浪々と、吟ずるように声をあげる。
「このお役目果たすならば、今ひとたび志乃輔が、そなたの名を呼ばわるぞ。いざやいざ、起きませい!」 
 そして直政は、その名を呼ぶ。
「起きませい! ……早蕨時森!」
 そして、直政はもう一度深々と礼をする。 一陣の風が吹き、蝋燭の火は消え入る。
 その一瞬、闇が座敷を覆い、顔をあげる直政の表情を隠した。 
「……起きろ……時森」
 その声は夜風に紛れるように、静寂に消えた。  
 
      §§§§§§§§
 
――びいーん――
 鳴弦の音が聞こえた。低い、弦をつま弾く音だった。
 しばらくして、
――からん、からん、からん――   
 美しい音が響いた。
 また少しして、
――びいーん、びいーん――
 弦を鳴らす音が続く。
 そして、
――時森
 と、名を呼ぶ、若い男の声がした。
 藤御前は、時森を抱き留めていた腕を緩める。
「志乃輔……? あぁ、名を呼ぶ声がする」
 時森は泣きはらした目に喜色を浮かべた。
「いっておいでなさい」
 藤御前は時森から半歩足を引き身を離すと、優しく微笑んだ。
 時森の身体が薄く色を失い、屋敷の中にまで入り込む風に、揺らぐようにして消えていく。
 その姿をかき消えてしまいそうにしながら、時森は藤御前を見つめると、
「志乃輔は、あの時言ってくれたことを覚えているだろうか?」
 と所在なさげに口にする。そして、目を伏せて考え込むように首をかしげた。
「いつかの……いつ……だったか……」
 時森が、悲しそうな顔でなにかを言いかけたが、それをかき消すように、疾風が吹きつけ屋敷を鳴らした。
 藤御前が物憂げにゆっくり瞬きすると、瞳を開けたときには、時森の姿はもうそこになかった。
「行かれる前に、何をおっしゃいたかったのでありましょうか」
 松葉は、独り言でも言うように、小さな声で訪ねると、
「……記憶……いえ、魂のどこかに齟齬を感じているのよ。それでも、あの子は独りになれない。もう、独りになるわけにはいかない…………」
 と藤御前はこたえた。
 紅葉はうつむきながら袖で口を隠し、ため息をつくと、
「なぜ、でございましょう。あの時、あのまま逝くこともできたでしょうに。私にはわかりませぬ……」
 と呟く。
「……そうね、あの子があの時どう思ったのかなんて、私にも本当の所はわかりはしないわ……けれども、私には覚えがある。あの、現世うつしよからこぼれ落ちてしまった日、私は凶刃に倒れ、あの人を失う事を知り、それを受け入れることができなかった。私は独りで逝きたくなかった……独りになれなかった。だから私も、逝かなかった。あらん限りの力でこの世にしがみつき、手につかんだものごと常夜に落ちた……お前達を巻き添えにしてね。……しかし、私たちと時森がちがうのは、あの子は、あんなになってもまだ、人で在りたいのよ」
「……あの有様で、いいように使われて……」
 松葉が不快そうに眉根をひそめる。
「それでも、ああして名を呼んでもらえるなら……私はすこし、うらやましい」
「姫様…………」
「お前達には、付き合わせて申し訳ないと思っているのよ」
「なにをおっしゃいます!」
 松葉と紅葉は悲鳴をあげるように声を合わせた。
 藤御前はくすりと笑うと、
「さぁ、一仕事しましょうか」
 と言って、藤御前は裂けた袖に骨になった腕を隠し、もう片方の袖を上下左右に舞うように振りながら、所々痛んで壊れた屋敷の中を、時森の放った風が通った後を、ゆっくりと進んで中庭へと向かう。それに習って、松葉と紅葉も同じように袖を振りながら藤御前のあとを付いていった。
 すると、三人の通る側から飛び散った襖障子の破片や、えぐれた柱の傷、壊れて転がった調度品の数々が、元の姿を取り戻していった。欠片達は寄り集まっては元在った場所へ帰って行き、先ほどまでの惨状が嘘のように屋敷が修復されていく。
 そうして、藤御前は屋敷の中を直しながら歩き、南廟にさしかかった辺りで足を止めると、そこで膝をつき、腰をおとし座り込んだ。 そこには薬箱が横倒しになって転がっていた。薬箱の蓋は壊れ、中にしまってあった小物は床に転がっている。
 藤御前は、転がった物の中から丸い小箱を拾い上げると、きっちりと閉まっていた蓋を開け、中にある木匙で艶やかに光る甘葛煎をひとすくいして口に運んだ。
――はじめて口にいたしました。おいしゅうございますね
 藤御前の耳に、いつかの声が響く。
 それは、いつだったか。
 藤御前は、口中に広がる甘さに人心地つけて、しばし瞳を閉じた。
 
      §§§§§§§§
 
 変化は、すぐにあらわれた。
 薄墨の走る白く艶やかな骨の表面に、赤く蜘蛛の巣が張るように細く血管が吹いていき、絹糸を張り織るように肉が編まれ、肉は骨を包んでは膨らんだ。
 そうして、長襦袢の下ではゆっくりと、人の形が取り戻されていく。
 直政はその様子に目を見張る。
 先代の三屋家当主――三屋総左衛門に志乃輔という名を与えられて早二年、もう幾度も時森の顕現を目にしていたが、直政はそこに死を覆すなにかを感じ、その度にそれに高揚した。「……すごい。もう私の知ってる時森ちゃんだわ」
 あせびはその様子に息を飲む。
「何を今更、あの時も、目の当たりにしたろう」
 輝密がそう言うと、あせびは、
「ぜんぜんちがうわよ。あの時はもっと、おどろおどろしかったし、本当に恐ろしかった。……今はなにかこう、神々しさも感じるわ」
 と胸をなで下ろして言う。
「それはそうでしょう。いまの時森はあの時と違い、怨嗟にまみれてもいませんし……どちらかと言えば、生前に近い形で顕現しているんです。初代志乃輔と旅を共にした流浪の巫子ふしであった、その頃と同じように……」
 直政は、時森を少し哀れむように見やると、そうあせびにこたえた。
 輝密はその遣り取りを、目を伏せたまま聞いている。
「輝密? どうかした?」
 千代美丸が心配そうに輝密に声を掛けた。「ん? ……なんでもないよ。時森さまと久々にお会いできるなと思ってね。感慨にふけっていたのさ」
「感慨?」
「骨身にしみて、ご縁に感じ入っているのさ」
「会えて良かったってこと?」
「そう。時森さまと会えなければ、私はここにいなかったからね。私は……」
 そう輝密は言いさす。
 すると時森が、ううん、と鼻息をもらした。直政は近くに寄ると時森を抱き起こし声をかけた。
「時森、気分はどうだ?」
 時森はゆっくり瞼をあけると、直政を見つめた。
「志乃輔……ここは……」
 時森の問いに輝密がこたえる。
「横濱酒々屋の奥座敷でございますよ。お加減はいかがですか? 時森さま……」
「輝密、久しぶりだね。いや、すこし前にあったばかりだったか……横濱……また私は眠ってしまっていたんだね」
「……はい。しばらくお眠りでした」
「夢行病? というのだったか……眠り、虚ろなままに動き回ってしまう。……またみんなに迷惑をかけたかな……自分の事ながら情けないよ」
「……時森、その話はいい」
 直政に言われて時森は目を伏せる。
「……ごめん」
「いや、謝らなくていいんだ。ただ……そのことは気にするな」
 時森は、身体を起こすと、はだけた長襦袢の胸元を直した。
 穢れを祓われ顕現している間、未だ時森は、己がもう真っ当な命あるものではない事に気づいてはいなかった。骨となり木箱に封じられている間のことは、白昼夢を見て己の意識を手放しているのだと思い込んでいるようだった。
 それは、三屋家にとって好都合だった。
 三屋家は、その昔、家命に背いた志乃輔を暗殺したことで時森の怨霊化を招き、怨霊化した時森の襲撃を受けて本家の屋敷と家人のほとんどを失った。
 そのまま、三屋家は時森に一族郎党滅ぼされるかと思われたが、家付きの陰陽師が生まれたばかりの志乃輔の甥にあたる男児を、志乃輔と名付け、人身御供として捧げた。
 その時、時森は少しの間だけ我に返ると、穢れた血肉が剥がれ落ち、骨だけを残し鎮まった。
 しかしその後も、時森は受肉して顕現し災厄をまき散らすことと、骨となり鎮まることを繰り返した。そのため三屋家は、幾人もの高名な巫女や生前に関わりのあった者達に慰めと術を施させ、一旦は完全に穢れを祓い清めて鎮めることに成功した。
 そして三屋家は、それをそうして清め鎮められたという事実が、それを意のままに操ることも可能であることの証左と考え、時森を利用し家の力とすることを思いついた。 
 もともと、三屋家は人を害した妖物や障りのある怪異の討滅を藩から請け負うことをお役目としていたから、家名に背いた先の志乃輔を守り、邪を祓った生前の時森のその力は、安全に利用できるのならば喉から手が出るほど欲しいものだった。
 そして、三屋家は人身御供とした男児を時森に愛でさせることで、時森の力を三屋家の望んだ形で操る術を手に入れた。
 受肉し顕現した時森は、初めて見た者を親と思う雛鳥のごとく、志乃輔として己の名を呼ぶ人身御供とされた男児を、なんの疑いもなく愛した。
 そして、時森は生前のままの姿で在りし日の力を揮い、志乃輔と名付けられ人身御供とされた男児が、家命であるお役目を果たす時に直面する災厄や禍害から守った。
 そして、それが知れ渡るようになると三屋家は、誰からも横やりが入らぬように、非業の死を遂げた巫子の怨霊を鎮め、その怨霊――狂骨を式妖としたと、人に仇なす妖物を監視し時に討滅する薬師達の作った極東薬種商業組合に届け出たのだった。
 そして三屋家は、その認許を受けたことで、道に悖った己らのこの所行を、半ば強引にではあるが、世間に認めさせることに成功した。
 それからというもの、三屋家は、人身御供とされた志乃輔の甥を二代目志乃輔と呼び、時森にそれを守らせると、それから代々、縁戚の男児に志乃輔を襲名させることにした。
 しかし、三人目の志乃輔を時森にあてがった時、時森は記憶と現実の齟齬に疑心を募らせた後、すべてを思い出した。そして、二代目志乃輔に添うた間はなりを潜めていた怨嗟を噴出させ、初代志乃輔を失った時のような怨霊となって、ふたたび三屋家を襲撃した。
 その一件以来、三屋家は、時森の扱いには細心の注意を払うようになった。
 時森の記憶の混濁や、現実と時森の間にある時の隔たりなど、そういったものの辻褄合わせを入念にし、物語を作り上げ、時森の周囲に徹底させた。
 そのうちの一つが、時森が夢行病を患っているというものだった。
 夢行病というありもしない病を作りだして言い聞かせ、骨として封じ移動させる時間をごまかし、時折見せる記憶の混濁の兆候が見えれば白昼夢を見たせいにして、封じ直して穢れを払う等していた。
 直政はそのことを思うと、不快そうに目を細める。三屋家に籍を置き、五代目として志乃輔を襲名しながらも、直政はその一切合切が気に入らなかった。
「……怒ってはいない?」
 己を見ない直政を、時森は不安げに見上げた。
「……怒ってない」
 そう言って直政は、視線を交わさぬまま息を吐く。
 あせびが何かを察して間に入った。
「時森ちゃん、わたしちょっとわかるわ。久しぶりに言葉を交わして、嬉しいのと寂しかったのがない交ぜになって、なんて言ったらいいか、わからないの。ね? 志乃輔君?」
「あせびちゃん…………志乃輔……そうなの?」
 時森は志乃輔を見つめたままこたえを待つ。 あせびさん、と直政はあせびの言葉に困惑しながら、
「……まぁ、そんなところだ」
 と時森にこたえた。
「……そうか。なら良かった……」
 時森は、ほんの少し頬をほころばせる。
「本当に……志乃輔は言葉も足りないし、気遣いというものがありませんからね。時森さまが不安になるのも仕方がありませんよ」
 輝密は言いながら、直政に冷めた視線を注ぐ。
「輝密はたくさんしゃべるもんね。ときちゃんもいっぱいすけくんにしゃべってもらいたいよね」
「千代美丸。相変わらず、輝密と仲良くしているんだね……」
「うん!」
 千代美丸の自慢気なその返事を聞いて、時森は己のことのように幸せそうに笑った。
「みんなは私が眠っている間、どう過ごしていたの?」
「そうねぇ。あんまり、代わり映えのない日々を、それぞれ過ごしていたわ。薬師の仕事の依頼も結構あったし……そんなことより、またしばらくは時森ちゃんと一緒に過ごせるし、今からどんなことが一緒にできるか楽しみよ」
 あせびは時森の笑顔を映すように笑顔を作り、心底そう思っているようだった。
「でも、今日は大変だったんだよ」
 千代美丸が、すこし元気をなくすようにして時森に言う。
「何かあったんだね」 
 時森は目を閉じると、神経を集中して何かを探る。
「そうか、すぐそこに穢れがある。それに、人が何人も亡くなったんだね……」
「……わかるか。時森、その穢れ祓えるか?」
 直政は聞く。直政は、その穢れを祓うのと同時に、時森自身の穢れまで祓わせてしまおうと考えた。
「うん。弓を……」
 そう言って、時森が手を差し出すと、直政は傍らに置いた弓を手渡した。
 時森は片膝をついて、先ほどの直政と同じように左手で弓把を握り、右手の親指に弦を掛け、弓を斜に構える※。時森は弓を押し、弦を引くと、離した。
――びゃん! ――
 聞く者の身体を打つように弦音が響いた。
 先ほどの直政と、所作はほとんど変わらないというのに、その弦音はまるで違っていた。直政達の身体を打ちつけた音は広がり、屋敷の方々に散って消えていく。
 響いた音の名残が、皆の耳に残っているうちに、時森は続けて同じように弓を押して弦を引き、離す。
――びゃん! ――
 音が穢れを打ち、引きはがすように揺らした。
 そしてもう一度、今度は先の二回よりも、強く弓を押し、大きく弦を引いて、離した。
――ぎゃん! ――
 その強勢は、穢れをかき消さんと一気に広がった。時森の穢れは音の発されるのと共に消え去り、弦音は響き、店の玄関先に残る不浄を吹き飛ばした。そして、その穢れを祓う力は、音が消えてなお、酒々屋を中心に街へと波及して穢れを祓っていく。
「すけくんのと、ぜんぜん違う……」
 千代美丸は、胸を梳くようなその音に、感心しきりのようだった。
 直政は不服そうに腕を組む。
「当たり前だ。時森が巫覡の弓を使って、巫子の力を行使しているんだぞ」
 それを聞いて、千代美丸は直政の機嫌を損なったと、まごまごしている。輝密はそれを横目で見てくすりと笑った。
「そう拗ねるなよ。お前の弦音の霊験だってたいしたものさ、志乃輔」
 輝密のからかうような言い回しに直政は、
「拗ねていない」
 とこたえ、ふん、と鼻をならした。
 時森は伏せていた目を見開くと、その瞳に直政を映した。時森は遠慮がちに微笑んで、直政の顔色を覗う。
「こんなもので、どうかな」
「ああ、十分だ。街中の穢れまで祓うとは、さすがという他ない…………時森、どこか障りのあるところはないか?」
 直政は時森に近づくと、確かめるように時森の身体を観察する。時森は、直政を見つめたまま、不思議そうに首をかしげた。その瞳は、懸命に直政の意図を探っているようだった。
「……なんでもない。そんな風に見つめるな」
 直政は注がれるその視線から逃れるように顔を背けた。
「ごめん……」
「……謝るな」
「なにか気に障ったのなら、謝る……ごめん」
「だから、謝るな!」
 苛立つ自分を抑えきれず、直政は吐き捨てるように言った。直政が苛立っているのは、己自身にたいしてだったが、時森にはわかろうはずもなかった。
 時森は、ごめん、と口ごもる。
 それを見かねたように、困り顔で千代美丸が言う。
「すけくんこわい……ときちゃんかわいそう」
 そう言って目を伏せ、大きな背を丸めて縮こまる千代美丸に、直政は心が痛んだ。千代美丸は、その見た目とはうらはらに幼子のように無垢なのだ。
「そんなつもりじゃ……」
 直政は弁明しようと口を開くが、うまく言葉が見つからなかった。
「……千代美丸、私が悪いんだよ。自分でもわかってる。なんというか、その……皆の言う病に罹ってから、意識が朦朧となって溶けるように眠りに落ちてしまう。そしてその度に……志乃輔の気持ちがわからなくなるような、そんな気がしてしまって…………」  
 時森は不安に押しつぶされそうになる胸に手を当てて、顔を苦しそうに歪めると、長襦袢の襟を握りしめた。
 その哀れな様は、皆の同情をさそった。
「時森ちゃん……」
 あせびは涙ぐむ目を伏せ、袖で口をおさえた。
 皆、知っている、時森を苛むその虚実を。
 その時々の志乃輔の想いなど、時森にわかろうはずもなかった。
 なぜなら、いつか添うた志乃輔はもうおらず、時森の目の前にいる志乃輔は、時森の愛した志乃輔ではないからだった。
「……時森…………」
 三屋家の犯した罪、いや、犯し続ける罪の証憑が、目の前で今にも泣き出しそうに顔を歪めている。直政は、居たたまれなさに言葉を失い、ただ、その名を呼んだ。
 時森は、名を呼ぶ声に顔を上げ、表情を緩ませると、直政をまっすぐに見つめた。
「……それでも、どうしようもなく、嬉しい。そうして、名を呼ばれるだけで私は、ここにいていいんだって、そう思えるんだ……」
 直政は無言のまま、時森を見つめ返した。時森の表情には恋慕の情が見てとれた。
 しかし、時森の瞳に映されているのは、直政ではない。
 直政は手を伸ばし、時森の肩をつかむと、眉根を寄せて目を閉じた。
「時森……」
 そのまま肩を引き寄せ、直政は時森を抱きすくめた。時森は驚いて一瞬表情を強張らせる。
「……志乃輔?」
 時森は込められる腕の力に表情を緩めると、直政の肩にあごを乗せたまま背中に腕をまわした。
「大丈夫。私は大丈夫だから……」
 背中に回した腕で、時森は直政の背中を、ぽんぽん、と優しく叩いた。
 直政は時森の首元に顔を埋めたまま、さらに腕に力を込めた。
「…………すまない」
 その声は、込められる力と反して消え入るように小さく、震えていた。
 時森の耳元で響いた声は、その瞳の映す酒々屋の天井に揺れる影をじわりと滲ませた。 重なる肌は熱を生むが、その時、風が吹き抜けた。
 夜風は二人をするりと撫でるように、触れあった肌と肌の間に生まれた熱をうばっていった。
 先ほどまで止んでいた虫の声が、高く澄んで耳に響く。鈴を転がすようなその声は、ひとつ、またひとつと増えては広がり、辺りに満ちた。
 
      §§§§§§§§
 
 甘葛煎は、口中にほんのりと甘さを残し、舌から喉へ、とろりと下っていく。その余韻にひたりながら、藤御前はゆっくりと瞳を開けた。
「……姫様、すべて済んでからになさいませ」
 紅葉は手を止め、呆れるように肩を落とすと、藤御前の側に自分も座り込んだ。
 そして、藤御前の前に横倒しになっていた薬箱を持ち上げ、割れた部分を袖で拭き上げるようにして直すと、蒔絵が見えるよう向きを変え、藤御前の目の前に戻した。
 その時、
――びゃん! ――
 と空から降ってくるようにして、音が屋敷を打った。
「……おや、この音は」
 松葉がその音に引き寄せられるように、一人中庭に出て、空を見上げる。
 すると、
――びゃん! ――
 と再び音が響いた。
「時森が弦を鳴らす音だわ」
 藤御前はそう言って、手に取っていた木匙を小箱にもどし、その小箱を薬箱に納めた。藤御前は、立ち上がり、松葉のいる所までゆっくりとした調子で歩いて行く。 
 弦音には、穢れを祓い邪を防ぐ力がある。時森の弓を鳴らす音は、藤御前達の元にまで響き、胸を梳くように空気を震わせた。
「五人目のものとは雲泥の差ね。さすがは時森」
 胸に手を当てて、満足気に微笑む藤御前の袖を風が揺らした。
 中庭を巡る風がぬくい。
「これは、春遠からじということでございましょうか?」
 松葉が藤御前に訊ねた。
「さて、どうかしら」
 藤御前は時森の魂の中にこの州浜を作った。この屋敷におこる森羅万象、そのすべては時森の心持ち次第だった。
 いま、時森の心が凍えるのをやめ、春を感じているのなら、中庭の景観は刻一刻と様相を変えていくだろう。
――たのしみだわ、時森
 藤御前は中庭を巡る風とともに、歩き出し、反橋のある方へ向かった。
 そこには一本の大きな梅の木が、枝を虚空に広げていた。
 見上げると、寒風にさらされていた枯れ枝に、いくつも小さな蕾が見えた。それは丸く膨らみ、もう己が持つ花色を知らせている。
「蕾が……」
「さようで、先ほどから吹くぬくい風に、木々も目を覚まそうとしているようです」
 松葉が言うと、
「ではやはり、先ほどから吹くこの風は、春風なのでございましょうか」
 いつのまにか、紅葉が松葉の隣で二人と同じように梅の木を見上げている。
 藤御前は仰向いていた視線を戻し、松葉達に向けると、二人は梅よりも一足早く、蕾がほころぶように微笑んでいた。
 藤御前はふたたび枝を見上げ、ついた蕾を見つめると、風が枝を揺らした。
――春風? いいえ、これは…………
 頬を撫でる風は柔く暖かさを増し、蕾はそれに命を与えられるように膨らみを増していく。
「……恵風、というのよ」
 春を待つ瞳の先に膨らむ白は、やがて小さくも美しい花を咲かせた。

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