1章 巫山之夢《12》


 風呂を上がり居間に戻った根夢は、障子戸を開けるなり怪訝な表情を浮かべた。
 根夢の席を挟んであさきとアズキが睨み合っていたからだ。
「……何があったんですか」
 睨み合っている視線の間に割り込んで座る気にはなれず、入口で立ち尽くしたまま独り言のように呟いた。
「根夢の一番は自分だ合戦をしていたんだよ、引く手あまただねぇ」
 大きなニシンの塩焼きを四つ乗せてたお盆を手に、部屋に入ってきた榊が二人の代わりに答えた。
「どうしてそういう……」
 呆れた様子で根夢は肩を落とす。
「ともかく、立っていないで、座りなさい。……それじゃあ座りづらいだろうけれど。二人も、もう食事なのだから辞めなさい」
 根夢が座り、各々の前にニシンの塩焼きが置かれていく。
 大きなニシンからは香ばしい香りが漂い、焦げた皮はパリっとしていかにも美味しいそうだ。
 アズキは魚を前に血が騒ぐのか、うずうずした様子でじっと生唾を飲みこんでいた。
「榊さん、一人一匹はにしては……随分大き過ぎませんか」
 もはや皿の上に収める事を諦め、長方形の魚用の皿から頭も尾も飛びだした状態で盛り付けられたニシンは〝食べられるものなら食べてみろ〟と言わんばかりに堂々と鎮座していた。
「いやぁ……根夢が湯あみをしている時にね、丁度魚売りが来たもんだからついね。旬だし、今日は魚好きの娘さんが来たばかりだし、沢山食べて欲しいじゃないか」
「それは、まあ……」
 そう言いながら根夢は目の前に置かれたニシンをじっと見つめる。美味しそうだが、やはり大きい。
「大丈夫! 食べられなかったらアズキが手伝う!」
 瞳をキラキラさせて根夢を見上げるアズキを横目に、あさきが片眉を上げる。
「根夢、食べられないもんがあったら黙って俺の皿によこしな。〝いつも通りに〟な」
 フンと得意げに鼻を鳴らすあさきと、その様子に頬を膨らませてあさきを睨むアズキに挟まれ、根夢は面倒な事になったと小さく溜息をつく。
 味噌汁で箸を濡らしながら、今日は意地でも一人で全て食べきろうと決意した。
 
 榊のニシンを半分貰い、それすらペロリと平らげてご機嫌なアズキが猫の姿で根夢の膝の上でうとうとと居眠りをしていた。そんなアズキの背中を撫でながら、いつもより量の多い一人前を食べきった根夢は苦し気に眉を寄せながらお茶を啜る。
「大丈夫か? ったく、無理して食うから」
「煩いですよ。誰のせいですか誰の」
「誰って、そうだなぁ……魚買いすぎたおっさんのせいじゃないか?」
 根夢の目が座る。
 溜息をつくわけでもなく、冷ややかな目でじっと見上げられたあさきはバツが悪そうに苦笑いをした。
「そんな顔すんなよ。あー、悪かった、俺が悪かったよ大人気なかった」
「本当にそう思ってます?」
「思ってるよ。ただ、思ってるのと抑えがきくかは別の話ってだけだ」
 その言葉に根夢は片眉を上げる。
「悪かったとは思ってる、本当だ。けど……いや、うーん……」
「なんなんですか、歯切れが悪い」
 口ごもるあさきに、根夢は詰め寄るように身体を乗り出す。
 するとあさきは困ったように眉を寄せ、身体を引いた。
「根夢、そのくらいにしてやりなさい。あさきと彼女は犬猿の仲なんだ、それはもう百年を超える長さでね。……色々思うところもあるだろうさ。……あぁアズキではなくたまもさんの方だよ」
 食卓の後片付けを始めながら榊が声をかける。
「ほら、片付けるから手伝っておくれ。それとあさきは、部屋にでも戻って少し頭冷やしな。一晩もすれば色々落ち着くだろう?」
「……ああ、そうする」
 そう言ってあさきは、一瞬不満げに榊に視線を向けた後、居間から出ていった。
 そんなあさきが去った障子戸を、根夢は足音が聞こえなくなるまで見送ると、膝の上のアズキを起さないようにそっと下ろし、榊の手伝いで食器をまとめ始めた。
「根夢」
 榊から呼ばれ顔を上げる。
「連れて行っておいて、こんな事を言うのはなんだけどね……たまもさんも元は国を揺るがすほどの悪狐だった方だ。今は改心して人間に寄り添う天狐一歩手前というのは確かだが、悪戯好きの性格までは変わらないからね。……これを飲んでおきなさい」
 榊が片付けの手を止め、そっと小さな紙の包みを根夢に差し出す。恐らく薬だろう。
「え……なんですこれ」
「さっき私が調合したものだよ」
「ええと……」
 〝何の〟とはっきり言わない榊に根夢は困惑の表情を向ける。
「まったく、力の強い妖物の術はちょっとした悪戯程度でも難解で困るよ。放っておいても、一晩経てば効力を失うなり目的達成なりされるだろうけどね、どちらにしても仕事に支障が出そうなものだからね」
「あの、何かされてたんでしょうか僕」
 榊が笑いを堪えているようにも、怒りを堪えているようにも見える不思議な顔で眉を寄せた。
「本来は店で御茶を挽くような遊女にかける術、客引きの用の蠱惑術をかけられていたんだよ。いや、正確には術をかけた道具を着物に仕込まれていた……だね」
 そう言いながら榊が袖から経文のような怪しげな文字がびっしり墨で書き込まれた、琥珀色の小さな木箱を取り出した。妖物の〝気〟を封じる術がかけられている黒絵屋製の木箱だ。
 蓋を開けると中からは小さな巾着袋が顔を出す。
 一見、なんの変哲もない手作りの匂い袋のような巾着だが、確かに目を凝らして見れば僅かに妖物の気が漂っている。普通の薬師ならば見過ごしてしまうような、例の蝶――虚蝶すら寄り付かない微弱な気配だ。
「あさきが帰り道、ずっと殺気を放って通行人を睨んでいたのはそれのせいだよ」
「僕はてっきり、たまもさんに会って来た事とか、アズキを引き取ってきた事にイライラしているからかと……」
「まぁ、それも無いわけではないだろうけれど、主な原因はソレだよ。実は私もあさきが見つけてくれるまで、てんで気付かなかったのだがね」
 根夢は箱に収められた袋をじっと見つめる。本当に見た目はただの匂い袋だ。しかし、見つめていると妙に甘い熟れすぎた果物の様な香りが漂ってくる。その香りは薄く開いた根夢の口から侵入し、肺を侵し、犯し、血液に溶け、身体中に染み渡っていくようだった。心なしか熱が出来てたようにも思える。
「根夢!」
 榊の張り詰めた声と共に、木箱の蓋が乾いた音を立てて閉じられる。
 その音に、根夢の隣で寝息を立てていたアズキがビクリと身体を震わせた。
「術が解けきっていないのに見せるべきじゃなかったね。早く薬を飲みなさい」
「あ……は、はい」
 根夢は薬包紙をそっと開き、軽く上を向いて舌の上に薬を乗せ、甘苦い薬の味が広がる前に差し出された水と共に一気に飲み干した。
 冷たい水が嫌な熱を浄化していく。
「でも、どうして」
「そりゃあ、あさきへの嫌がらせだろうね」
「嫌がらせ……。あさきさんが一方的にたまもさんを毛嫌いしているんだと思ってたんですが、たまもさんの方もあさきさんを?」
「ああ、言い方が悪かったね。彼女はあさきを嫌っている訳じゃないよ。むしろ数少ない親友くらいには思っているかもしれないね」
「え、じゃあどうしてこんな……」
「困った事に、それも彼女の愛情表現の一つなんだよ」
 根夢は怪訝な顔を榊に向ける。
「妖物はそもそも人間とは全く価値観が違うんだ。あさきに慣れていると忘れがちだけれどね。というか、鬼って言うのは妖物の中でも一番人間と価値観が近い。元が人間だからね。しかしたまもさんは狐だ。人間の様な振る舞いをしていても、本性は狐、野に生きる獣なんだよ」
「なるほど……」
「まぁ、悪戯心はあれど悪意はないんだ。あさきにはただひたすら迷惑なだけだろうけれどね」
 カチャカチャと食器同士のぶつかる音が響く。同じ形同士、同じ種類同士で重ねられていく食器たち。少し大きなあさきの茶碗の上に、根夢の茶碗がバランスよく収まった。
 重なった二つの茶碗を、根夢の手から榊が受け取る。
「ありがとう。あとは良いからお前も寝なさい」
「はい。……あ、アズキどうしましょう」
「ああ、そうだね……部屋はあるが、目覚めた時に知らない場所で誰も居ないのは不安だろう。とりあえず今夜は私の部屋に毛布でも敷いておくよ。この様子だと今夜は猫のままでいるつもりだろうし」
 そう言いながら榊がアズキの背を優しそうな眼差しを向けながら撫でた。アズキは起きる様子もなく、心地よさそうに寝息を立てている。
「じゃあ、お願いします」
「明日は……空き部屋の掃除でもしようじゃないか。たまもさんがアズキ用の家具や着物を少し送ってくれるそうだから」
「アズキ、ずいぶん大事にされていたんですね」
 根夢の言葉に、榊は目を細めて頷いた。
「それじゃあ、僕も部屋に戻ります。おやすみなさい」
 そう言って居間を出ようとする根夢を榊が呼び止めた。
「今夜は、あさきの部屋には行かない方がいい。……喧嘩になるよ」
「……」
「挨拶くらいなら……大丈夫だとは思うけれどね」
「はい。たまもさんからの悪戯の事も謝らなきゃいけないし……挨拶くらいは」
「そうだね。……まあ、あまり心配させないでおくれよ。お前の事は……本当に、息子のみたいなものだと思っているのだからね」
「ありがとうございます」
 そうして居間を出た根夢の瞳は、中庭から差し込む月に照らされ僅かに金色の光を帯びていた。
 
 ――――続く

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