1章 巫山之夢《10》


 余所行きの笑顔を張り付けたまま戻ってきたたまもは、抱えてきた黒猫を部屋に置き去りにして、再び部屋を出ていってしまった。
 その黒猫はようやく子猫を抜け出したばかりくらいの年頃で、初めて見る根夢と榊に驚いたのか剥きたての銀杏の実のような若草色をした目を見開き、柔かそうな毛を逆立て威嚇するように始終部屋の隅で唸っている。
 妖茶物屋でごく普通の猫を飼うとは考え辛い。おそらくこの黒猫が、たまもの言っていた「最近入った猫又ちゃん」なのだろうが、こうなってしまうと一目だけでは普通の猫との区別はつかないものだ。
 たまもから猫が外に出ないようにと言伝された根夢は、せめて安心させようと猫と同じ目線まで身体を伏せ、ニコリと笑う。
「大丈夫だよ、そんなに怒らないで、ね?」
 そう言いながら根夢がゆっくり手を伸ばすが、猫は唸りながら後ずさっていく。
 それでも根夢は「大丈夫、大丈夫」と声をかけ、手を伸ばす。強引に触れる事はせず、興味を引こうと指先を小刻みに動かしてみる。
 暫くそうしていると猫の方も敵意が無いと判断したのか、鼻をヒクヒク動かしながら根夢の指先に顔を近づけてきた。
 驚かさないよう、根夢は変わらず指を動かし続ける。
 すると今度は猫の方からがおずおずと、その小さな手を伸ばしてきた。そのままチョンと根夢の指に触れた。
 猫の手はすぐに離れたが直ぐにまた伸ばしてくると、今度はチョンチョンと二回、リズムよく根夢の指に触れる。
「ね、大丈夫でしょう? 撫でてもいいかな?」
 恐らく根夢の言葉がわかっているのだろう。猫は根夢の言葉を聞くと、じっと根夢を見つめ、根夢の方から動く気配がない事を察すると、自ら近づき根夢の手にゴンと頭を押し付けた。 
「ありがとうねー」
 根夢は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしながら猫の頭を撫でる。
 すると猫も目を細めて喉を鳴らし、しまいには腹を上にして寝転がってしまった。
「あら、思った以上に懐いて……」
 突然たまもの声が降ってきた。たまもは少し驚いた顔で根夢と猫を見下ろし、その手には風呂敷包みを抱えている。
 猫の方はというと、目を真ん丸にして跳ぶようにして根夢から離れる。着地したかと思うと、猫の姿は陽炎の様に揺らめき、みるみるうちに十代前半くらいと思しき少女の姿へ変化していった。背中まである長い髪を携えた少女の頭には、髪と同じく艶やかな黒い色をした猫の耳が生え、身体の後ろでは細長い尻尾が揺れている。
 若草色の着物に前掛けをした姿は、この店で見かける他の給仕たちと同じ格好だが、今日見かけた中では抜きん出て若々しく、色街で仕事をする娘とは思えない清々しさを醸し出していた。
「姉さん、ごめんなさいにゃー!」
 たまもと目が合うや否や、娘は勢いよくたまもに向かって頭を下げた。
「仕方ないわ。それにあの客、だいぶ酩酊していたし、床入れ不可の給仕に手を出そうとしたんだもの。出禁にしてやったわ」
「にゃにゃ……でも引っ掻いちゃったにゃ……」
「そうね。だからあんたもお咎めなしって訳にはいかないよ」
「にゃ……」
 たまもにの言葉に娘はしょんぼりと耳を垂れさせ、尻尾は身体の前に回りこませて縮こまる。
「まあとりえあえず、そこにお座りなさい」
 そうたまもが促すと、娘は膝をピッタリと合せて小さくなりながらたまもの横に座る。
 根夢が座り直すのを見届けると、たまもが笑顔を作って見せた。
「まずは紹介しないとね。このこは花千代。見ての通り、うちで給仕をしている猫又の娘よ。化け猫ではなく、あえて猫又って言ってる意味はわかるかしら」
「ええ、化け猫と猫又の明確な線引きの基準は、夢魔としての能力が有るか無いかです。猫又という事は……夢魔なんですね」
 根夢の返答にたまもは満足そうに頷く。
「満点の答えだわ。そう、このこは夢魔――他人の夢に入り込んで性交を行い、精力と共に生気を奪う事で自身の糧とする……というのが正常な夢魔」
 〝正常な〟という言葉に娘が小さく項垂れる。
 その様子を横目に、たまもはなお言葉を続けた。
「なのだけれど……このこ、人の夢に入り込む事は出来るけれど、なんて言ったらいかしら……そうね、要は男性嫌いなの。だから、そういった行為が男性客とは全くできなくてね。うちは床入れしない娘もいる事をお品書きにも書いているから、それでも良いと思っていたのだけれど……猫又となると、やっぱりお客さまも期待しちゃうみたいなのよね」
 すっかり俯いてしまった娘を気遣うように、たまもは娘の肩に優しく手を添える。
「それでね、それぞれが良ければなのだけれど……」
 たまもが根夢と娘の顔を交互に見やり微笑む。
「このこ、根夢君の式鬼にどうかしら」
 二人が目を丸くしてたまもを凝視する。
「先にも言ったけれど、勿論それぞれの……特に花千代、あんたの気持ち次第だけれどね」
「シキ……?」
「この人はね、あんたと同じで人の夢の中に行くことが出来るんだよ。夢に入って、病気の原因を見つけたり、悪い妖物を退治したりしているの。その手伝いをあんたなら出来るんじゃないかい?」
「……それって、ここを出ていくって事にゃ……? たまも姉さんとさよならなのにゃ……?」
 不安げに目を潤ませる娘にたまもは真っ直ぐ目を合わせ優しく微笑む。
「あんたは愛嬌があるし、素直な良いこだから私も手放したくはないよ。けどね、あんたが抱えてる心の傷は、この店に居たらもっと酷くなるよ。判っているでしょう、ここはあんたが生まれた店から大して離れていない。……いつか、あんたの飼い主を不幸にした男が、あんたを抱こうとするかもしれないんだよ」
 娘の顔が青くなる。
 見開かれた目からは、大粒の涙がボロボロと溢れ、畳を濡らした。
「嫌にゃ……判んないにゃ、嫌にゃ……」
 泣きじゃくる娘の背中を優しく抱きしめながら、たまもは根夢に微笑みかける。
「このこね、元は近くにある置屋の花魁が飼っていた子猫だったんだよ。だけどその花魁、どうも客の男に騙されたらくて、つい最近自殺してしまってね。何の因果か、行き場がない子猫は猫又になってしまった。式鬼登録もしていないから、街の結界から出られなくて、巡り巡ってうちに来たの」
 たまもは娘の背中をさすりながら言葉を続ける。
「妖物になってから日も浅いし、人に慣れる為にも給仕の仕事を……と思っていたのだけれど、今日みたいないざこざ、実は初めてじゃないのよ。店として困るというのもあるけれど、なによりこのままだとこのこの心が壊れてしまう。そんな所に夢渡りが出来る薬師さんときたら、ね」
 たまもの言葉に、根夢は暫く考え込み、口を開く。
「あの……確かに彼女が手伝ってくれるなら僕は助かります。でも……男嫌いなんですよね? うち、男ばっかりの家ですよ」
 そう言って根夢は先程から黙り込んでいる榊に助けを求めるように視線と送る。
 しかし榊は我関せずといった様子で冷めた茶を啜っていた。
「夢魔っていうのはね、自分に対して劣情を抱いてくる相手かどうかっていうのはすぐ判るものなのよ。精力を狩りにいって不発だったなんてことにならないようにね」
 たまもが意味ありげにニヤリと笑う。
「そういう意味で、私は根夢君の家なら大丈夫だと思うのだけれど」
 根夢は再び、榊に助けを求めるように視線を送る。
 榊は相変わらず我関せずといった様子で茶を啜ろうと湯呑を手に取るが、空になった湯呑の底を見るとすぐに机に戻し小さく咳払いをした。
「私も問題はないと思っているよ。私達二人はもちろんだが、あさきも……たまもさん、貴女なら視えているだろうからあえて言う必要はないね。しかし、うちはともかく、結局は彼女の気持ちが一番だよ。急な話だからね」
 全員の視線が娘に集まった。
 すでに涙が乾いている娘は三人の顔を順番に眺めながら、言葉を探すように口を小さく動かしている。
「別にあんたがここを出ていったからって、もう会えなくなるわけじゃないんだよ。私はいつだってここにいるし、こっちの榊さんって先生はこの店にも良く来てくださるんだ。だから、いつでも遊びにきていいんだよ」
 娘は膝に置いた握りこぶしを見つめて黙り込んでいたが、暫くすると意を決した様に顔を上げる。
「この人の手、暖かかったにゃ。お姉ちゃん……わっちの飼い主だった花魁さんみたいだったにゃ。だから……お家、行ってみたいにゃ」
「よし、決まりだね」
 明るい顔でたまもが手を合わせると、乾いた音が部屋に広がった。
「さて、それじゃあ諸々の手続きはあるけれど、まずは花千代あんた名前を変えなきゃいけないね」
「なんでにゃ?」
「その名前じゃ、いかにも花街の女って名前だからだよ。そうだね……根夢君、名前つけてあげてくれないかしら?」
「え、僕ですか?」
 突然の事に戸惑う根夢に、娘は期待の眼差しを向ける。
 暫く唸りながら考えこんでいた根夢だが、一度小さく頷くと娘に優しく微笑みながらゆっくり口を開く。
「アズキ……とかどうかな」
「アズキ……」
 娘が噛みしめるように呟く。
「可愛いじゃない、似合ってるわよ」
 娘がたまもを見上げる。
「わっち、アズキ……にゃ」
「そう、あんたはこれからアズキだよ。ああそうだ〝わっち〟て言うのもおやめなさい。それは廓言葉だからね」
「そうなのにゃ……なんて言ったらいいにゃ」
「ワタシとかアタシとか……自分の名前に慣れる為にも、アズキって言ってもいいかもしれないね」
 〝アズキ〟の顔がパッと華やぐ。
「アズキ! アズキはアズキにゃ!」
「良いじゃない。ねえ」
 たまもが嬉しそうに微笑み、アズキの頭を撫でる。
「それじゃあね、これは私からの餞別だよ。……その給仕の着物のまま外には出られないだろう?」
 そう言ってたまもが風呂敷を広げると、そこには白い小花が散りばめられた小豆色の着物が入っていた。
「たまもさんその色……」
「千里眼ってのは便利なのよ」
 驚いた顔で根夢が声を漏らすと、たまもは悪戯っぽく笑う。
「さ、着替えさせるから申し訳ないけれど、二人は店先でちょいと待っててくださいな」
 急き立てられなあら二人は店を出ると、大通りに設置されている赤い布が掛かった横長の腰掛に座った。
「根夢、今のうちにあさきに蝶紙でも送っておきなさい。アズキの式鬼申請は私から眞竹に連絡を入れておくから」
 二人はそれぞれ蝶紙を取り出し、ペンを走らせる。
 要件を書き終わると、真ん中で半分に折る。すると蝶の形をした紙は、まるで生きている蝶の様にゆっくりと羽ばたき始めた。
 ふっと軽く息を吹きかけてやると、蝶紙は宙に舞い、舞い落ちる桜の花びらを掻い潜って空へ溶け込んでいった。
 
 それから数分、店の引き戸が音を立てて開かれると、中からたまもが顔を出した。
 こちらを見つけて微笑むと、後ろを振り返り手招きする。
 しかしそれっきり動く様子がなく不思議に思っていると、たまもはやれやれと首を振り、再び店へ入ってしまった。
 暫くして扉が開くと、今度はアズキが顔を真っ赤にして押し出されてきた。
 店に居た時は付けていなかったはずだが、人間ならば耳があるであろう辺りで両方の髪をひと房ずつ、真っ赤な艶のある舶来品のリボンと呼ばれる細い布で縛っている。小豆色の着物も黒い髪によく映えていた。
 すぐ後ろからたまもが顔を出したところを見ると、押したのはたまもだろう。
「まったく、何を恥ずかしがってるやら」
「だって、だって、こんなのアズキじゃないにゃ」
「何言ってるの、あんたは可愛いんだって何度も言ってるでしょう。ほら、行きなさい待ってるわよ」
 たまもがアズキの背中をポンと優しく叩き、それに勇気づけられるようにしてアズキがおずおずと二人の前に歩み出る。
「……っと、あの……よ、よろしくお願いしにゃす!」
 勢いよくアズキが頭を下げた。
 〝にゃす〟などと言う妙な言い回しにたまもは笑いをこらえているようだったが、根夢は優しくアズキの頭を撫でた。
「これからよろしくね、アズキ」
「にゃ! 夢の道案内ならアズキにおまかせにゃ!」
 そう言ってアズキは満面の笑みで寝夢を見上げた。
 
 ――――続く

◆お知らせ◆

さて、ここで一つ、お知らせというかお詫びというかなんですが……。
11月のデザフェスに向けて何かと忙しくなってきたので、10月、11月の小説更新をお休みさせていただきます。
デザフェス関連のお知らせ等はすると思いますが、小説の次回更新は12月1日となります。
ご容赦ください。
ではでは、また次回に……。

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