1章 巫山之夢《6》


「おはようございます、眞竹さなたけですが――」
 三人が自宅に戻り再度の外出に向けて荷物整理をしていると、玄関の戸が叩かれ、来客を告げる声が続いた。
「おや……」
 榊はいそいそと玄関へ向かい、戸を開ける。
 そこには榊と同じくらいの年恰好だが、榊ほど老いを感じさせず、健康そうな男が立っていた。
 いわゆるスーツと呼ばれる洋装、舶来品の黒い装束を纏い、前髪をぴっちりと上げ凛々しい顔つで、いかにも仕事が出来る男といった風貌だ。
「おはよう晶墨あきずみ。どうしたんだこんな朝から」
「おはようございます。どうしたじゃありませんよ、なんですかあれは」
「はて……?」
 皆目見当がつかぬという素振りで榊が目を泳がせると、晶墨はその凛々しい顔を瞬時に歪ませ、怒りと呆れの入り混じった顔で榊に詰め寄る。
「本部に出した申請書です! また勝手に自分の名前を出して……先に連絡くださいっていつも言ってますよね。どうして先輩はそういう――」
「まあまあ、玄関先じゃご近所に迷惑だからね、中に入りなさい」
「そうでした……」
 晶墨はハッとした顔を見せ、声を抑えた。
 榊はニコリと微笑み、家に上るように促す仕草をする。
「お邪魔します」
 晶墨は少し不服そうな顔で促されるまま玄関に入ると、丁寧に靴を揃えて家に上る。
「実は私達もさっき帰ってきたばかりでね、あまり部屋も整っていないからそこは勘弁してくれ」
「そうでしたか、それは失礼しました」
「いやまあ……お前が来るような気はしていたけどね」
「ご理解いただけているようで何よりです」
 そんな会話をしながら二人が居間に入ると、くつろいだ様子で茶を啜っていた根夢とあさきが顔を上げた。
「おはようございます、眞竹さん」
「おはよう。朝から騒がしくしてすまないね、根夢くん」
 挨拶を交わす二人の隣を、あさきは渋い顔で立ち上がりすり抜けていく。
「そんなに私が気に入らないのか貴様は」
 後一歩で部屋を出ようというところで声がかかると、あさきはあからさまに嫌そうに眉をしかめて振り返る。
「良い年したおっさんが、他人様に声かけすんのに〝貴様〟はないだろ」
「ふん、所詮お山の大将だな、学が無い。貴様という呼び方は目上の相手に対して、尊敬の気持ちを含めて用いる言い方だ。貴様の方が年上なのだから当然だろう」
「阿保抜かせ、アンタの言い方はどう考えたって蔑んでる方の言い方だろうが」
「止めないか二人とも」
 今にも掴みかかりそうな二人の間に、榊は割って入る。
「まったく二人とも、それこそ良い年なんだから……。晶墨、お前は私に用があるんだろう? 意味の無い嫌味を言うのが、本部付の幹部がする仕事ではないはずだが。あさきも、私の大事な後輩を虐めないでほしいね。そもそも君が彼に対して失礼な態度をとるからこういう事になるんだからね」
 榊の言葉で二人が黙り込む。暫くしてあさきは、ふんと鼻を鳴らして部屋を出ていった。
 あさきの後姿を見送ると、榊は晶墨の正面に座りなおす。
「さて……晶墨のお小言を聞こうかな」
「そういう態度はずるいですよ。醒めるじゃないですか」
 柔和な笑みを浮かべる榊を前に、晶墨は深く溜息をつく。
「良い事じゃないか。何事も冷静に対処するのが賢明だ。頭に血が上りやすいのは、お前の悪いところだよ」
「あの……それはごもっともですが、それを言うならそもそも先輩も毎度毎度、雑な申請書を書いたあげく、了承も無しに同行者の欄に自分の名前を書かないでほしいのですが」
 徐々に早口になっていた晶墨の言葉が途切れると、榊は柔和な笑みを保ったまま口を開く。
「それはそうだけどお前、私の頼みは断らないだろう? わざわざ判り切った返事を聞くのに〝蝶紙ちょうし〟を使うのは時間も紙も勿体ないじゃないか。それに紙を無駄遣いすると、地獄で紙の橋を渡らなきゃならないんだよ」
 蝶紙。
 多くの薬師が使う道具の一つで、簡易的な連絡を取る為に使われる、蝶の形をした綴り紙だ。文の様に文字を書き込み、空に放って使う。
 ことわざの「虫の知らせ」を元にした〝蟲報こほう〟という特殊な術がかけられており、雨で溶けたり鳥や獣に捕まえられてしまう事もなく空を舞い、目的の人物まで報せを届けてくれる。
 本部の購買部や黒絵屋に代表される薬師向けの専門店で取り扱っており、薬師の間で広く愛用され、新人薬師の初期配布物一式の中にも入っているような至極一般的な道具だ。
 そんな他愛のない話を持ち出し、晶墨からの糾弾を飄々とかわす榊に晶墨は大きなため息をついた。
「そういうところですよ、自分が怒ってるのは! 今地獄の話は関係ありません。面倒でもきちんとしてください。ただでさえ討伐薬師は命を懸けて戦っています。少しでも安全に確実に任務がこなせるように、組織としては色々と手を打ってるんですから、そのために決められた手続きはきちんとしてください。それに自分がいつでも体が開いてるとは限らないって何度も言ってますよね」
 いつの間にか席を外していた根夢が、二人分の茶を持って戻ってくる。榊と晶墨、各々の前に緑茶が入った湯呑を静かに置き、自分は元の席へ座った。
「ありがとう根夢。ほら、一服して落ち着きなさい晶墨」
 晶墨は腑に落ちないという顔をしながらも、差し出された湯呑に口をつける。
「っつ!」
「だから落ち着きないさいと言ったんだよ、お前は猫舌なんだから」
 そう言いながら榊は丁寧に両手で包んだ湯呑をそっと口元へ運ぶ。
「悪かったね、晶墨。……あの事件の後、逃げるようにして京都から東京へ移り住んだ私達に、色々と融通してくれたのはお前だったね。お前は頭が固くて、少々怒りっぽいが、心は人一倍優しい……私は、そんなお前に少しお前に甘え過ぎているのかもしれないね」
「……」
 気落ちしたように寂しげな笑みを浮かべる榊から、晶墨は居所悪げな顔で目を逸らす。
「すみません、そこまで責めたつもりはありませんでした。ただ自分は……少しでも先輩の力になりたいと思う反面、自分も抱えてる仕事があるので、確実に応えるためにはやっぱり事前に連絡はほしいと……反省します、強く言いすぎました」
 先程の勢いが嘘のようにしょぼくれてしまった晶墨を、湯呑越しにじっと見ていた榊が小刻みに肩を震わせる。しまいには顔を隠すようにして額に手をあて、すっかり俯いてしまった。
 その様子に晶墨を顔を青ざめさせ、榊の傍に寄る。
「あ、あの。泣いてます? すみません、本当にそんなつもりじゃ……!」
 榊の肩が大きく一度上下する。ゆっくりと顔が上がると、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 が――
「先輩……まさか笑ってました?」
 口元が、何かを堪える様に不自然にきつく結ばれていたのだ。
「まったく! そういうところですからね!」
「いやいやすまない、馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただお前は本当に、こんなに立派になっても学び舎にいた頃から変わらないと思ったらつい、ね」
 笑い涙を指で拭いながら、榊は冷め始めた残りの茶を全て飲み干した。
「そんな年寄りみたいな言い方して、先輩だって自分と五つも違わない筈ですよね? 孫を見守るおじいさんじゃないんですから」
「そうは言っても五十がちらついてきたからね、片足棺桶だよ」
「やめてください、縁起でもない」
「ははは、いやいや、ああそういえば……さっき、あさきともそんな話をしたなぁ」
「アレと一緒にするのはやめてください」
 あさきの名前が出たとたん、晶墨は眉間に深く皺を寄せる。
 榊は困ったように眉を下げて苦笑いを晶墨に向ける。
「晶墨、お前が妖物嫌いなのは判っているけどね。私としては……もう少しだけ、歩み寄ってほしいかなぁ」
「妖物は……討伐するべき脅威です」
 その言葉に榊は晶墨から目を逸らすと、空になった湯呑に目を落とし、言葉を続ける。
「それじゃあお前は、目の前に居る根夢もいずれは討伐するのかい?」
「それは! 根夢君は……人間じゃないですか……まだ」
「そう〝まだ〟だ。いつ爆発するか判らないよ。それにお前も知っているだろう? 根夢の母親は桃の精だ。今だって半分は妖物だよ」
「……」
 晶墨は苦し気に眉を寄せたまま押し黙る。
 引き合いに出された根夢も居心地悪そうに二人を見比べていた。
「私だってね、討伐をしていた事があるんだから妖物の恐ろしさや害については良く知っているよ。だけどね、それと同じくらい人間の醜悪さも知っている……それは、あの京都の事件でお前も嫌と言うほど見たと思うけどね。だいたい元をただせば我々人間が昔、しょうもない政権争いの為に、ひっそり生きていた妖物達を無理矢理こちらの世界へ呼び出してしまったのがきっかけだろう? 妖物ばかり排除しようなんて、今更虫がよすぎるんじゃないかね。……なんて、お前に言ったところで、ただの八つ当たりにしかならないのだけど」
「いえ……」
 歯切れの悪い返事をすると、晶墨は冷めきった茶を飲み干し、小さく息を吐く。
「先輩の言う事も判ってはいます。しかし、やはり自分は……妖物と慣れ合う気にはとても……」
「うん、それはお前の生き方だから無理は言えない。討伐の薬師になろうなんて者はみんな何かしら背負っているものだしね。ただ、せめて私の後輩として私を助けてくれるのなら……私の家族にだけは刃を向けないでいてくれ。これは私の我儘だけどね」
「……向けませんよ刃なんて根夢君にも……あさきにも。約束します」
「そうか、ありがとう」
 何か考え込むような様子のまま晶墨は立ち上がる。
「帰るかい?」
「はい、用事は済みましたし、少し自分も頭を冷やした方が良さそうなので」
 榊は静かに頷いて立ち上がり、晶墨と共に玄関へ向かっていく。
 その後ろを根夢は無言のままついていった。
 
 玄関で靴を履こうとする晶墨の様子を見ながら、榊が口を開く。
「そろそろ靴ベラくらい買うかなぁ」
 その言葉に目を丸くして晶墨が振り返った。
「え、先輩も洋装するんですか?」
「そんなわけないだろう。お前が洋装だからだよ。靴ベラが無きゃ履きづらいんだろ、その革靴ってのは」
「いえ、でも自分ここの家の人間じゃありませんし、そんな……」
「世間でも洋装を見かける事が増えてきた。客にもたまに見かけるんだよ。お前の為だけじゃないから安心しなさい」
「は、はあ……」
 戸惑い顔を榊に向けながら、晶墨はつま先を地面に軽く叩きつけ、靴の履き心地を調整する。
「ほら、そうやって靴を打ち付けたら靴が痛むだろう」
「あ、はい、すみまんせん」
「晶墨」
「はい」
 真剣な面持ちで真っ直ぐ視線を向ける榊に、晶墨は短い返事をする。
「私はもう前線には立てない。根夢が妖物と一戦交えようなんて時に、傍で手助けが出来ない。だから晶墨……」
「止めてください先輩。判ってますから。さっきからなんなんです本当に……縁起でもない」
「あはは、年かなぁ。少し気が弱くなっているかもしれないね」
「先輩の言いたい事は判りました。本部付幹部としても、所属する薬師の身の安全は最優先事項です。もちろんその周りの協力者も。……自分の家族を食い殺した妖物は許しませんが、自分も時代の流れと共に少しずつ考えは改めていかねばと思ってはいます。ただ……ただ、あさきとはとにかく性格が合わないんです! 協力はしますが〝仲良く〟というのは勘弁してください!」
 吐き出すようにして口早に話し切った晶墨は、そのままの勢いで深々と頭を下げた。
 榊は優し気に笑うと晶墨の肩を叩く。
「すまないね、本当に。ありがとう」
「……そう思うなら少しは書類をまともに書けるようになってください。字も丁寧にお願いします」
 口元を緩ませながらも、晶墨は片眉を上げて榊に詰め寄る。
「わかったわかった、気をつけるからもう行きなさい。忙しいのだろう?」
「はい。あ、そうだ。今回の件、同行できるように調整しますので、いざ討伐となったらすぐ蝶紙で連絡してください」
「わかった、一番綺麗な蝶を飛ばすよ晶墨」
 榊の言葉を聞くと、晶墨は一礼して去っていく。
 その姿が戸の向こうで見えなくなると、榊と根夢も部屋に戻っていった。
 
 ――――続く

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