1章 巫山之夢《13》

「まったく、何事も程々にしなさいといつも言っているだろう。治療をする側がそれでは、患者に示しがつかないよ」
「ごめんなさい……」
 消え入りそうな声を絞り出しながら、根夢が頭を抑えて俯いた。
「そりゃぁね、鬼が飲むような強い酒を寝しなに飲んだらそうなるのは当たり前なんだよ」
 冷めかけた朝食を配膳しながら榊はため息まじりに声をかける。
「はい……」
「あさきも、こういう事はお前がきちんと止めてくれ。根夢はお前と同じではないのだから」
「いや、鬼にそんな教育めいたこと期待されてもな」
 榊から受け取った茶碗を根夢に渡しながらあさきは口を尖らせた。
「千年近くも人間に溶け込んで生活していたお前が今さら何を言う」
「いや……それは、まぁ……」
 
 ――数分前の事だ。
 居間に入ってきた根夢の様子を見るなり、あさきを呼ぶ榊の怒号が家中に轟いた。
 滅多な事では大きな声を出さない榊だが、親代わりとして根夢の身を案ずる者として見過ごせないほど今朝の根夢は酷いものだった。
 顔面蒼白、辛うじて立ってはいるものの今にも崩れ落ちそうな足取りで、頭を抑えながら入ってきたからだ。
 そんな根夢の様子と、抜けきらぬ酒の匂いから酷い二日酔いであることは明白だった。
 台所から酒が無くなった様子はない、とすれば常に酒を部屋に置いているあさきの仕業に間違いない。
 昨夜あさきの部屋に行くなと釘を刺したのに、いやそれもそうだが、早い段階であさきにも頭を冷やすように促したはずだというのに、いやいや、そもそもこうなるまで酒を飲ませるなど年長者として言語道断だ。
 そんな思いが積もりに積もり、怒号となった。
 そうして榊の声に叩き起こされたあさきは呑気に居間に入ってきたものの、根夢の様子と鬼の自分より鬼の様な形相をした榊を前に思わず根夢の隣に正座し、今に至る。
 
「私はね、あさき。たとえお前が鬼であろうと、信用しているのだよ。悪事をはたらく事もなく、むしろお前は根夢の事となると私以上に身を案じる。だから根夢が身体を壊す様な事は決してしないと思っていた。だが何だこれは」
「ごめんなさい榊さん! 僕が悪いいんです、昨夜止められていたのにあさきさんの部屋に行ったから……言い合いになってしまって、ムキなって……」
「それはさっきも聞いたけれどね。徳利いっぱいの酒を一気に飲み干したのだろう? それも、あろうことか古酒だ。頭痛だけで済んでいるのが幸いなくらいだよ。当分お前は酒を飲んではいけないよ、良いね」
「はい」
 大きなため息とともに榊が額を抑えて項垂れる。
「あさき、もちろんお前もだからね。後で部屋に置いている酒を全て持ってきなさい」
「なっ――」
「当たり前だろう。嫌なら家から出ていくんだね。すぐに討伐依頼を出してやるよ」
「……っち、判ったよ」
 ただの脅しではない口ぶりの榊を前に、あさきも渋々頷いた。
「一生飲むなとは言わないけれどね、私の目が黒いうちはそう簡単に酒は飲まさないよ」
「なんだよそれ」
 不満げに声を上げたあさきをひと睨みすると、榊はフンと鼻を鳴らす。
「そうだねぇ、私が万が一殺されたら、犯人はあさきだって晶墨あたりにでも言い残しておこうかね」
「あーそうかい、じゃあ俺の知らねぇ所で変なやつに殺されたりすんなよ。濡れ衣なんてごめんだからな」
 そう言いながら食事の挨拶もせず、あさきは白米を頬張る。
「あさき、いただきますくらい言いなさい」
「ふぁいふぁい、いはらいてます」
 食事と頬張ったまま声をあげるあさきに、榊はあきれ顔でため息をついた。
「アズキ、食事が冷めてしまうよ、出てきなさい」
 そう言って榊はちゃぶ台の下をのぞき込んだ。
 その視線の先、ちゃぶ台の陰で銀杏色の瞳が二つじっと榊を見つめ、ニィと小さく鳴き声がした。
「さっきは大きな声を出して悪かったね。もう怒っていないから、ほら」
 おずおずと猫の姿のままアズキが姿を現す。ちゃぶ台から体が完全に出ると、アズキの体が靄に包まれ、次の瞬間には人の姿に変わっていた。
「さあ、お説教は仕舞いだ。根夢も無理のない程度には食べなさい、それからこれは二日酔いの薬だよ」
 榊は根夢に粉薬を差し出す。
「後で作り方も復習しておきなさい。次からは自分でできるようにね」
「はい」
 頭痛と倦怠感を堪えながら食事をする根夢、少し不機嫌そうに黙々と箸を進めるあさき。ほぼ食器のぶつかる音だけがする、静かな朝食だった。
 そんな朝食が終わろうとする頃、玄関を叩く音が響く。
「すみませーん。薬師の先生はいらっしゃいますか? 中川先生の担当の者ですが――」
 アズキを除く三人が、小さく眉をひそめ顔を見合わせた。
「私が行ってこよう。三人は食事を済ませてしまいなさい。出かけることになりそうだからね」
 そう言って居間をを出て行った榊だったが、すぐに険しい顔で戻ってきた。
「中川さんの意識が無いそうだよ」
「え――」
「書斎で突っ伏したまま反応がないそうだ。私はすぐに中川さんの所へ。あさき、お前も着いてきておくれ」
「僕も行きます」
 腰を浮かせた根夢に、榊は小さく首を振る。
「いや、お前はアズキと一緒に夢渡りの準備をしておきなさい。場合によっては緊急討伐になるかもしれないが……まあ、晶墨には私から連絡しよう。じゃないと拗ねるからねあいつは」
 そう言い切ると、榊は立ったまま湯飲みに入った冷めた茶を飲み干し、小さく息を吐く。
「じゃあ、悪いけれど片付けも頼むよ。事は急を要する」
「はい。いってらっしゃい」
 羽織や薬箱を取りに行くため、榊は足早に居間を出て行く。
 あさきはその様子を見送りながらゆっくり立ち上がり振り返った。
「初仕事だぞ頑張れよ、馬鹿猫」
「にゃ! 馬鹿は余計にゃ!」
 目を釣り上げるアズキだが、あさきは気にするどころか面白がるようにして頭を撫でた。
「あさきー。まだかい?」
 玄関から榊の声がする。
「悪い、今行く! んじゃ行ってくるわ」
 あさきは二人に笑いかけ居間を後にし、小走りで榊に着いて出かけていった。
 
 ――――続く

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