1章 巫山之夢《14》

 中川の家に着くと、玄関先では妖物を見る為のものであろう眼鏡を掛けた晶墨が、難しい顔で中川の家を見上げていた。
 榊達を見つけるや、小走りで近づいて来る。
「先輩、何があったんです? 根夢君は……」
「ああ、少々切迫した状況になってしまったのでね、根夢には家で夢渡りの準備をしてもらっているよ」
「そうでしたか。……まだ家には入っていませんが、この辺り虚蝶の群れが飛び回っているので急いだ方がいいでしょう」
「ああ、そうだねこれは……」
「気持ち悪ぃな」
 普段使いの眼鏡の上に、妖物用の片眼鏡をかけながら家を見上げた榊の隣で、あさきが吐き捨てるように呟いた。
「あの……何が……」
 三人の後ろで、中川の担当編集者と名乗った男が不安そうに佇んでいる。
「ああ、すみません。ヤミに反応する微弱な妖物が家に群がっているんです。この眼鏡がないと視えないような弱いものですが……あまり気持ちの良いものではないのでお見せするのは止めておきましょう。さて、中川さんが心配ですし、中へ急ぎましょうか」
 榊はそう言って一歩踏み出す。
 しかしそんな榊の腕を晶墨が掴んだ。
「先輩は編集者殿と一緒に自分の後ろです。もし討伐対象と鉢合わせでもしたらどうするんですか」
 一瞬目を丸くした榊だが、晶墨の真面目一辺倒といった顔を見ると目を細めた。
「そうだったね、じゃあ先導を頼むよ」
 晶墨が玄関を潜って行く。
 その後ろにあさきが続き、距離を開けずに榊達は続いていった。
 
・・※・※・・
 
 一方、自宅に残った根夢は榊に処方された二日酔いの薬を飲み多少体調が回復したところで、直ぐに夢渡りの準備を始めた。
 香炉に入れられた灰をならし、コの字型にくぼみを作る。
 隣ではアズキが正座してその様子を興味深げに覗き込んでいた。
「ここに、これを入れるの?」
 アズキは抹香の入った器と匙を持ちながら首を傾げる。
「そう、少しずつね」
 根夢に言われ、アズキは緊張した面持ちで、小指の先程度のごく少量の抹香を慎重にすくい上げた。
「こ、このくらい?」
 匙にちょこんと乗った少量の抹香は、少し息を吹きかけただけで全て吹き飛んでしまいそうだ。
「もうちょっと……そうだな、やっぱり最初だけは僕がやるよ。ちょっと貸してごらん」
 根夢はアズキから匙を受け取り、適度な量の抹香をすくう。
「こうやって、ゆっくり……ね」
 根夢はひとすくい分をくぼみにいれ終えると、アズキに匙を返す。
 受け取ったアズキは根夢を真似ながら抹香をくぼみに埋めていく。
 少しずつ、慎重に、ゆっくりと。
 普段根夢がそうしている倍以上の時間をかけ詰められた抹香は、少しくぼみからはみ出てしまった部分もった。しかし根夢はそれを直さずアズキに微笑みかける。
「うん、よくできました。ありがとうアズキ」
 根夢は匙を受け取りながらアズキの頭をなでる。すると、猫姿の時と同じようにアズキは目を細めてうれしそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「さて、後は触媒を入れるだけだけど……まだ帰ってこないよなぁ。大丈夫かな中川さん」
 根夢が独り言のようにつぶやく。
「しょくばい?」
「そう。行きたい夢に自由に行くにはね、夢の持ち主の体の一部が必要なんだ。髪の毛とか爪とか。それがないと夢渡り中に行き先がわからなくなってしまうんだよ。夢を見ている人はたくさんいるから」
「ふうん……人間って大変だね。アズキなら、うーんってその人のこと考えればすぐ行けちゃうよ。ナカガワサン……って人は知らない人だから行けないけど」
 アズキの言葉に根夢は目を丸めた。うまくすれば触媒無しで任意の夢へ渡る事が出来るかもしれない。
 そんな事を考えていると、玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。
 榊達が帰ってきたのだろう。
 思っていたより早い帰宅に驚きながらも、根夢は玄関へと向かう。
「お帰りなさい。早かったですね」
「ただいま。体調は? 準備はできてるかい?」
 根夢に背を向け、履物を脱ぎながら榊が声をかけてくる。それに続いて、あさきと晶墨も履物を脱いだ。
「はい、体調も準備も問題ありません。中川さんはどうでした?」
「応急処置はしてきたよ。意識はないままだけれどね。とりあえず居間へ行こうか、作戦会議をしないといけないからね」
 榊は根夢に向かって微笑みながら頷き、歩き出した。
 
・・※・※・・
 
「お茶ならアズキもできる!」
 そう言ってアズキが居間を出て行く。
 それを微笑ましく見送りながら四人はちゃぶ台を囲んで座った。
「さて、中川さんの容態だけれど――」
 着物を正しながら榊が口を開いた。
「応急処置をして、担当さんに裨気湯ひきとうを渡してきたから今すぐ衰弱死する事はない。ただ早急に中川さんの魂を捕らえている妖物を討伐、もしくは交渉して諦めさせなければ、後保って二日といったところだね」
「そうですか……」
 鎮痛な面持ちで根夢が声を絞り出す。
 重い空気が部屋に漂う中、ふと障子戸の向こう側で物音がした。
「開けて欲しいのにゃ!」
 アズキだ。
 根夢が障子戸を開けると、両手にお盆を抱えたアズキを目が合った。アズキが弾けるような笑顔を向ける。
 釣られて根夢が微笑むと、アズキは二本の尻尾を揺らしながら、得意げにお茶の入った湯呑を一人一人配っていく。
 そんなアズキを横目で見ながら席に戻ると、根夢は口を開いた。
「それで、なぜ中川さんは魂を連れていかれてしまったんです? 護符をお渡ししていたんですよね?」
「それなんだけれどね、どうも自分で剥がしたようなんだよ」
 そう言って榊が皺くちゃに握り潰された護符を懐から取り出し、ちゃぶ台の上に置いた。
「どうして……」
「惚れちまってたみたいだぞ」
 あさきがぶっきらぼうに口を挟む。その横で、始終表情を硬くしたまま黙り込んでいた晶墨の眉間が僅かに寄せられた。
「実はね……ここの所中川さんが書いていた小説というのが、彼女との事を書いた恋愛小説だったようでね。昨晩原稿を書き上げた後に、部屋の護符を剥がしたみたいだよ。もうやり切ったと思ってしまったのかなぁ……」
「そんな」
 何か言いたげに晶墨の口が僅かに動いたが、結局言葉を発することなく結ばれる。その様子を一瞥しつつも、榊はそれを指摘する事もなく言葉を続けた。
「相手が妖物を言えど男女の事だ、何かのっぴきならない事情があるのだろうね。しかし薬師として放っておくわけにはいかないし、だからと言って、相手の妖物を問答無用で討伐するのはこの場合好ましくないだろう。それでだ。私、晶墨の枯葉組と、根夢、あさき、アズキの若葉組に分かれて、各々同時に説得に行こうじゃないかというのが私の作戦だけれど、どうかな?」
 榊の言葉に全員が目を丸くする。
 晶墨に至っては深く寄せられた眉間を押さえるようにして頭を抱えてしまった。
「あれ、何か変な事言ったかい?」
「……先輩、百歩譲って自分と先輩が枯葉なのは年齢的にも許容しましょう。ですが……だからこそ、あさきを若葉と呼ぶのは無理があるのでは」
「ははは、そこは見た目の問題だよ」
 榊の言葉にあさきが吹きだして笑う。
「はっはっは、成熟した大人の男である俺が若葉なんてちゃんちゃら可笑しいって言おうと思ったんだが、アンタが枯葉で俺の方が若々しいって事なら仕方ねぇなぁ!」
「何だと貴様! これだから鬼は辛抱ならん!」
「止めないか二人とも」
 今にも刀の柄に手を伸ばしそうな晶墨と、見下すように立ち上がったあさきを榊が一括する。
「少し洒落を利かせようと思ったのだけれど、お前達には猫に小判だったようだね。嘆かわしいよ」
「にゃ! 呼んだにゃ?」
 不意に聞こえた猫という言葉にアズキが顔を上げ、目を輝かせる。
「やめろ馬鹿猫、話がややこしくなる」
「にゃにが馬鹿にゃー!」
「座りなさいアズキ! あさきさんも! 大人気なかったって昨日反省したばかりですよね? 馬鹿なんですか?」
 立ち上がったアズキの袖を引っ張り無理矢理座らせながら、根夢はあさきに冷たい視線を投げる。
 バツが悪そうな顔で渋々あさきが座ると、根夢は小さく咳払いをした後、口を開いた。
「それで榊さん、同時に説得しにいくとして、場所は判ったんですか? 相手の妖物の娘さんは」
「もちろんだ。さっき話したように、中川さんの小説には場所や容姿が存外詳細に書かれていてね、ある程度嘘が混ざっているとしても概ね事実だと思うよ。今までの作品とは毛色が違う。それに……」
 榊が懐から使い古された手帳を取り出した。
「このネタ帳にね、店の場所が書かれているんだよ。私が探し回るだろうって、思いつかなかったのか……それとも何か意図があるのか判らないけれど、たまもさんから聞いた話と照らし合せても、情報としては間違いないはずだよ」
「あの、でも……」
「勿論、罠の可能性もある。だから晶墨にも付いて来てもらうんだよ」
 根夢が視線を送ると、晶墨は小さく頷いた。
「私と先輩で奴を店に足止めし、中川さんを手放すよう説得する。だから根夢君はその間に夢渡りをして中川さんを説得してくれ。連絡は蝶紙を飛ばす」
「判りました」
「決行は今夜、柳原土手の娼館が開店する時刻に。さてそれじゃあ晶墨、変装だ。あさき、着物を貸しておくれ。飛び切り派手で頭の悪そうな物を物を頼むよ」
「あれ、本気ですか……」
 晶墨が肩を落としてため息をつく。
「本気だとも。男二人で同時に一人の夜鷹を一晩買うだなんて、如何にも堅気にしか見えない人間が行ったところで、買わせてくれる訳がないだろう」
「それは、そうですが……」
 帰り道に三人で話しをしていたのだろう、あさきも事情心得たりといった様子で二人のやりとりを可笑しそうにニヤニヤ見守っていた。
 不思議そうな顔をする根夢に、あさきが二人を順番に指さしながら説明する。
「榊のおっさんが関西から出てきたゴロツキの親分、アイツは女経験のない下っぱで、こっちに来たついでに親分直々に女の抱き方を教えてやるってんで、金さえ積めば何でもやらせてくれるっつー娼館に来たって設定らしいぞ。笑えるだろ?」
「ええ……」
 ひどく突飛な設定に根夢の顔が引きつる。
 しかしそんな根夢の様子はお構いなしに、榊は晶墨を伴い居間を出て行った。
「じゃ、面白そうだから俺も行ってくる。そんなにかかりゃしないだろうから、根夢はそこでのんびりしてればいい」
 そう言ってあさきも出て行ってしまう。
 取り残された根夢とアズキは顔を見合わせると呆れた様子で笑い合い、冷めたお茶を啜った。
 ――――続く

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