1章 巫山之夢《1》


 出会いは桃の木の下だった。――いや、正確にはまだ出会っていないのかもしれない。
 紅白に咲き分けた花が満開になった枝を大きく枝垂れさせ、源平しだれ桃は風に揺れる。
 その根元では、燃えるような朱色の長い長い髪を携えた青年が、死んだように眠っていた。
  
 これは夢だ。
  
 夢の主、木之下根夢ねむは瞬時に理解する。
 物心ついた頃から、幾度となく繰り返してきた同じ夢。
 大きな紅白の花をつけた源平しだれ桃の根元で人が眠っている、ただそれだけの夢。
 しかしこの眠る青年は、元からこの姿だったわけではない。一番古い記憶の中では、彼はまだほんの小さな子供で、一人で眠っているのが可哀想なくらい小さかったのだ。
 今は違う。すっかり大人になり、身体は大きく、髪は踝まで伸び放題だ。
 大きくなったな、と思う。自分も、彼も。
 根夢は眠る彼の隣に座り、開いたことのない瞼を見つめる。
「久しぶりだね」
 返事はない。だが、お構いなしに根夢は言葉を続ける。
「僕ね、薬師くすしになったよ」
 風が吹く。
 ひとひら、赤い桃の花びらが舞い落ち、眠る彼の頬に落ちる。
 根夢はその花びらを取ろうと手を伸ばすが再び吹いた風に花びらはさらわれ、飛んでいき、髪の色と同じ朱色のまつ毛は寂し気に風に揺れた――
  
   ・・※・※・・
  
 いくつもの呪符が貼り付けられた観音開きの背負い木箱に、所せましと小瓶や小箱、鉄の串等が詰め込まれていく。その小物はどれも奇妙で、小箱は墨で呪文がびっしりと書かれていおり、小瓶の方はと言うと、やはり墨で《退朝》《鬼神》《不忍》等の、恐らく内容物の名称であろう怪しげな言葉が書かれた紙が貼り付けられている。
 中には《悪死》などと、不穏な字面のものも多数あり、箱全体が異様な空気を放っていた。
 一見すると危険な呪い道具だが、開き戸の内側には人体の解剖図や極東薬種行商組合というところが発行しているらしい「薬種商販売業許可証」と書かれた張り紙があることから医療道具らしいという事が伺える。
 パタンと音を立て木箱の扉が閉じられると、ふうとひと息、緊張を紛らわすような硬いため息が聞こえ、人の良さそうな顔をした青年が顔を上げた。
「根夢、準備できたか?」
 木箱の中を整理していた青年、根夢は声の方を振り返る。
 そこには派手な赤い着流しを着崩し、赤毛混じりでこげ茶色のくせっ毛を、大ざっぱに前髪ごと低い位置で後ろ縛りをした青年が、戸に寄りかかる様にして立っていた。
「あさきさん! はい、多分」
「多分かよ」
 あさきと呼ばれた青年は、根夢の答えに苦笑いを返す。
 所謂〝歌舞伎者〟と言われる派手な出で立ちで、粗暴さも垣間見える物言いだが、根夢に向ける視線は存外優しげだ。
「なんだか忘れ物していそうで……」
「今日はさかきのおっさんと刀受け取りに行くだけだろ? 箱の中身なんて忘れてたって構いやしねぇよ。ただ――」
 あさきは根夢に向かって手に持っていた物を軽く投げる。
「それ、忘れるなよ」
 あさきから投げ渡されたのは、黒い羽織。そして蝶の様な家紋が描かれ、下部には〝薬師〟と書かれた腕章だ。
 〝薬師〟それは妖物あやかしものと呼ばれる魑魅魍魎が跋扈ばっこする、鎖国状態を保ったままの〝この日本〟で、妖物を原因とする病を治せる者達である。また、一部の薬師は薬だけでは対処不可能な、根源たる妖物を討伐する仕事も請け負っている。
 黒い羽織と腕章は、薬師であるという証し。
 そして根夢は、その討伐もする薬師だ。
 二年余りの勉強と鍛錬を重ね、今年の春にようやく試験に合格し〝極東薬種行商組合〟の正式な薬師を名乗る事が許された。
 討伐薬師には武器も必要だ。それも、妖物を斬ることのできる特殊な物。
 そういった特殊な武器となると制作には技術が必要だ。故にまず薬師になると、組合から刀が支給される。威力重視で打刀がいい、いや小回りの利く脇差が良い等、ある程度に希望に添ったものが支給されるが、その性能はごく一般的な物に過ぎない。
 結果、多くの薬師は自分の使いやすいように改造したり、そもそも別の武器種を主武器としてに使い、支給品は副武器としての運用しかしない者もいる。
 もちろん改造するにもそれなりの技術が必要だが、幸いな事にこの根夢達の住む神田は指折り職人達が多く住んでいて、町名に各職業の名称がつけられているほどだ。
 今日はそんな職人街の中でも様々な鍛冶師が集まる鍛冶町まで、改造を依頼した脇差を受け取りに行くのである。
「部屋に戻るのも面倒だろうと思ってな」
「ありがとうございます」
 根夢は渡されたそれらを丁寧に身に着け、最後に木箱を背負う。
 自分より少し背の高いあさきを、見上げる様にして振り返った。
「そういえば式鬼しきの件、考えて貰えました?」
 式鬼、陰陽師の式神を語源として作られた制度で、薬師を主とした使役されている妖物を表すものだ。
 時代の流れと共に、妖物との共存という動きが出始めたとはいえ、未だ妖物は一般的に脅威となる存在。
 しかし、古くから陰陽師が式神を利用していたように、やはり悪しき妖物と対峙するには妖物の持つ能力が必要になる事も少なくない。そうなると、陰陽師の様に妖物を使役する他流の薬師も出てくるのは自然の流れだ。
 そんな中で、一般的に脅威であり討伐の対象である妖物と、薬師が使役する安全が保障された妖物を判りやすくするためには、何か目印が欲しいと言う要望で作られたのが式鬼と言う制度だ。
 なお、その証として体のどこかわかりやすい場所に刺青、もしくは体の構造上難しい等、認められた理由がある場合は専用の腕章をつけることが義務づけられている。
「あー……。やっぱり、俺はそういうのはやめておく。〝九条あさき〟って名前も本当の名前じゃねーし、だからって本当の名前で組合に登録なんかしたら、大騒ぎになっちまう。……確かに俺は鬼だけど、こうして人の型をしてりゃ誰も判りゃしないだろ?」
「まあ、そうですけど……」
 鬼は人に擬態する能力が高い。
 というのは、そもそも鬼と言う妖物自体、元が人間だからだ。
 悲運な因果、陰謀、嫉妬、怒りなど様々な事情によって人が転化してしまったもの、それが鬼。
 ある意味、人間という物を一番理解している妖物だろう。
 もちろん、鬼と鬼の間に出来た子供というものも存在しない訳ではない。しかし、多くの鬼は人から転化した直後、理性を失い暴走する。そうすると人里に大きな被害が出る為、大概は薬師に討伐されてしまう。
 暴走もせず、討伐もされず、同族を見つけて子を成すというのは本当に極稀な事だ。
 このあさきと名乗る鬼に何があったのか、根夢は良く知らない。
 しかし、物心ついた頃から知るこの鬼は、根夢が怪我をすれば榊よりも先に薬箱を持って飛んでくるし、泣いて帰ってくれば「誰に虐められた!」と物凄い剣幕で怒る、過保護な親であり、兄であり、友人であり、もっとそれ以上に信頼する相棒として傍にいてくれた。
 故に薬師となった今、せめてもの恩返しに、鬼の姿を隠さずとも安全な生活が出来るよう、式鬼という制度を薦めてみたのだが、本人にその気は無いようだ。
「悪いな」
「いえ、ちょっと……刺青したあさきあさんとか、強そうで格好いいかなって思っただけなんで、大丈夫ですよ」
「なんだよそれ」
 あさきがくっくと笑うと、根夢は一歩あさきに近づき真面目な顔でじっとあさきを見つめる。
「それで、あさきさん、僕薬師になりましたよ。そろそろ本当の名前、教えてくれでもいいんじゃないですか?」
 根夢の真っ直ぐに向けられた視線に、あさきは息を飲む。
 暫しの沈黙の後、あさきは小さく息を吐き、口を開いた。
「駄目だ」
「……ま、そうですよね」
「なんだ、食い下がんないんだな」
「そう簡単に教えてもらえると思ってませんよ。十八で遅い元服した時も駄目でしたし、二年経って薬師になった程度で、意地悪なあさきさんが教えてくれる筈ないですよね」
 そう言った根夢が不満げに目を細めると、長い睫毛が影を落とし、瞳から光が消える。
 普段は人の良さそうな笑顔が評判の根夢だが、こうして機嫌の悪い時の顔は妙な凄みがある。
「言葉に棘があるぞ、棘が」
 不貞腐れた顔のまま視線を向ける根夢の頭に、あさきは手を乗せる。その手を根夢は掴み、そっと退かした。
「こういう子供扱いも、いつになったら辞めてくれるんですかね」
「そうは言ってもな、俺は根夢が赤ん坊の頃から知ってるんだぞ」
「そうでしょうけど。そんな事言ってたら、僕が四十、五十になった時、変な感じになりますよ」
 あさきは口元に手をあて、暫し考え、ニヤリと笑う。
「俺は別に」
「僕が嫌なんです!」
 
「根夢、待たせたね今帰ったよ。出られるかい?」
 少し遠くから呼びかける声がした。それと同時に、廊下をこちらに向かってくる足音が聞こえてくる。
「なんだ、あさきも起きてたのか」
 ひょっこりと顔を出したのは四十後半と思われる、白髪混交じりで丸眼鏡をかけた、品の良さそうな初老の男性だ。
 根夢と同じように黒い羽織、腕章をつけているがその腕章はいかにも年季物という様子で、色焼けや綻びがある。
 首にはもう一つ、蝶の装飾が端に付いた虫眼鏡の様にツルのない片眼鏡を提げている。
「そりゃあ流石に、もう昼ですし?」
 あさきが部屋にある時計をチラリと見ながら答えると、その男はバツが悪そうに頭を掻いた。
「ああ、もうそんな時間か。結構かかってしまったね……」
「おかえりなさい、榊さん。帰ってきたばっかりですけど、すぐ出かけて大丈夫なんですか?」
「ああ、そうだねぇ……」
 宮ノ内榊。根夢にとっては父親代わり兼、薬師の師匠みたいなものだ。
 生まれたばかりの頃に、根夢は両親を亡くしている。両親は榊と古くからの友人で榊の出身である京都に家があったようだが両親の死と共にこの神田に引っ越してきた。
 故に、両親の顔は知らず、身内と言ったらこの榊と、あさきくらいなものだ。
 十八歳で遅い元服を迎えた根夢が薬師になると決意した時から、榊は薬師に必要な知識や技術を根夢に教え込んだ。
 昨今は薬師の為の学び舎などと言う物もあるのだが、根夢は身近な人から現場の、生の知識を得たいと、学び舎ではなく榊を師とすることを選んだ。
 結果、榊の知識が多少偏っていたせいで最初に受けた試験は不合格になったのだが……最終的には合格したのだから問題ないと根夢は思っているようだった。
 榊は腕組みをしながら考え込むと、根夢とあさき、二人に視線を向ける。
「あさき、刀の受け取りは貴方も来てください。せっかくだから、その足で食事にでも行きましょう」
「おう、判った。俺はいつでも出られるが、どうだ根夢」
 そう言ってあさきが振り返ると、すでに根夢も木箱を背負い準備万端の様子だった。
「行けます」
 先程の不機嫌な顔とは打って変わって、嬉しそうに明るい顔で返事が返ってくる。
「よーし、刀を受け取ったら根夢も完璧な薬師だ。祝い酒と行こうや」
「私は午後の往診もあるし、根夢にも付き合ってもらうから駄目だよ」
 意気揚々と歩き出したあさきに、榊が待ったと声をかける。
 不服そうな顔で振り返ったあさきに、根夢が笑いかけた。
「夜、家に帰って来てからみんなで飲みましょう。それまで、あさきさんも我慢でお願いします」
 そう言って歩き出す根夢の後ろをあさきが追いかける。
 そんな二人の後を榊は満足そうな笑顔で続いて行った。
 
 ――――続く

ちょっくら式鬼の話をする辺りのセリフを直しました。
設定に関わるところなので……。(2019/07/11)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

 にほんブログ村 小説ブログへ