1章 巫山之夢《3》


 昼の間四人が膝を付け合わせていた居間に、今は根夢が横たわり、月の光が瞼を照らす。
 枕元ではあさきが胡坐をかき、左手中指には赤く細い紐が結び付けられている。その先は根夢の右手中指に繋がっていた。
 部屋に充満する甘い匂いの中に、たんぱく質の焼ける不快な臭いが僅かに溶け込み漂っている。
 あさきは臭いの元である香炉をチラリと覗く。
 香炉の灰に掘られた溝には抹香がコの字型に埋め込まれ、その中には毛髪が混ぜられている。患者である中川の毛髪だ。
 術に使う香に患者の体の一部を混ぜ込み、共に燃やす事で夢渡りの行き先を指定する。この方法なら余程の事がなければ十中八九目的の夢に辿り着ける。
 火をつけてから数分ほど、あさきは香を焦がしていく火種をぼんやりと見つめる。
 すると、不意に指に着けた紐が揺れた。
「おう、ちゃんと入れたか」
 ――はい、視界も良好、中川さんを探します――
 頭に直接語り掛けるようにして根夢の声が響き、それに呼応して紐が揺れる。
「気をつけろよ。正体が判らねぇんだ、何がおきてもおかしくねぇ」
 ――ええ、勿論です。じゃああさきさん、僕の身体よろしくお願いします――
 そう言い残すと再び部屋はしんと静まり返った。
 あさきは紐が結ばれている手を根夢に伸ばすが、髪に触れる寸前で手を止め、ゆっくりと自分の膝に乗せた。
「初仕事、しくじんなよ」
 小さく呟いた後、あさきはこの家の玄関があるであろう方角をじっと睨み付けた。
 
   ・・※・※・・
 
 あさきと言葉を交わし終えると、根夢は右手中指に結んだ紐にそっと触れる。紐の先は霧の中に消える様に暗闇に溶けて見えないが、触れるだけで心が安らいだ。
 顔を上げると目の前には男が横たわっていた。じっと、注意深く観察する。
 男は間違いなく昼間顔合わせをした中川であり、この夢世界の主なのだが、その身体は半透明で向こう側に布団の皺が透けて見えていた。
 まだ眠りに入ったばかりで夢を見る状態まで意識が上がっていないのだ。
 少し早かったかもしれない。香の効果時間が多少心配ではあるが、今回は相手の顔を確かめるだけだから間に合うだろうと言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
 その時、不意に部屋の空気が変わった。耳を潰さんばかりの〝気〟による圧迫感が根夢を襲う。
 根夢は腰に提げた脇差、夢の世界に持って行けるように改造をした〝夢幻刀むげんとう〟を手で探り、存在を確かめる。
 ――根夢、大丈夫か? 来たみたいだぞ――
「はい、僕は大丈夫です。でもまだ中川さんが上って来なくて……」
 そう言いながら根夢は中川の方を振りかえる。
 やはりまだ半透明だ。
 おかしい。
 普通なら夢魔の来訪と共に、標的にされた者はどんなに深い眠りについていても強制的に夢を見る浅い眠りにまで持ち上げられてしまう。
 そうして良質な睡眠を邪魔されたあげく、妖物に生気を食べられてしまうため、目が覚めた時に酷い倦怠感や眩暈を引き起こすのだ。
 故に今、標的であるはずの中川が夢に上がってこないのは不自然だ。
 つまり、今の標的は中川ではない。
 根夢は息を殺しながら部屋の出口にあたる襖に近づいていく。
 そろり、そろりと音をたてないように。
 すると、長い裾を引きずるような音が聞こえてきた。段々、音は大きくなっている。
 来る。
 確実に、この部屋を目指して。
 根夢は襖の上を見上げる。問題ない、護符はある。結界はしっかり効いている。
 いざとなればこの夢幻刀もある。大丈夫だ。
 スッ、スッとゆっくり近づいていた足音が襖の前で止まった。
 ――根夢! ――
 紐が激しく揺れ、あさきの声が頭に響く。
 大丈夫、大丈夫、奴はこの部屋には絶対に入れない。
 根夢は意を決して襖を開け、正面を見据えた。
「え、あさきさ――」
 
   ・・※・※・・
 
 ジュッと水分が飛ぶ音が香炉から鳴る。
 乱暴に握りつぶされた火種が、忌ま忌ましげにあさきの皮膚を焼いた。
 刹那、隣でヒュッと喉が鳴ったかと思うと、すぐに小刻みに激しく浅い息が聞こえてくる。
「根夢! 目を開けろ!」
 あさきの声が響く。
 続けざまにパタパタと廊下を走る音が近づく中、根夢が大きく目を見開いた。
「戻ってきたな? 俺が判るか?」
「――ぁ、あさっ……」
 胸を押さえて息を整えようとする根夢を、あさきが抱き起こす。
「どうしました!」
 勢いよく襖が開き、血相を変えた榊が部屋に入ってくる。
「ごめんなさい……気付かれました……」
 呼吸を落ち着かせながら返事をする根夢を確認し、榊はほっと胸をなでおろす。
「……いや、すこし大人数で構え過ぎたんだろうね。結界が出来た時点で向こうも邪魔者に気づいていたんだろうし、今日の夢渡りは結果を急ぎ過ぎたかもしれない」
「いえ、コソコソするより、いっそ開き直って真正面から顔を見ることが出来たので、これはこれで成功ですよ」
「そうか、何はともあれ向こうは去ったようだし、根夢も問題ないみたいで安心したよ」
 そういって榊が二人の前に正座する。
「それで、どんな顔をしてたんだい?」
 榊の問いかけに根夢は口を押さえて考え込む。
「なんだよ、見たんだろ?」
 口ごもる根夢に、あさきは少し苛立ちながら問い詰める。
「その、妙にぼんやりしていて、はっきりしないんですが……多分、あさきさんに……似てました」
「は?」
 あさきが口をポカンと開けて根夢を見る。
 榊は神妙な顔で口を開いた。
「それは……あさき本人ではないね?」
「はい、勿論。あさきさんとに似ているって感覚があるんですが、髪は輝いて良く見えなくて、でも女性物の華やかな着物を着ていて……すごく、美しい方でした」
「……は?」
 あさきは怪訝そうな顔で眉間に皺を寄せる。
「……訳が判らねぇ」
「同感だよ……と言いたい所だけど、何故あさきに似ていたかはさておき、一つだけ新たに判った事があるね。なんだと思う?」
「派手な着物……正体は、遊女ってことですか?」
 あさきの眉間が更に強く寄せられる。それを尻目に、榊は小さく首を振った。
「それはさっき中川さんとの話もでも出ていたね。……もっと大事な事があるはずだよ」
 根夢は一瞬考え込むように俯くが、すぐにハッと顔を上げた。
「相手によって、姿を変えることが出来るって事でしょうか」
「正解だ。中川さんが根夢と同じくあさきによく似た美女を見たのだとしたら、今日顔を合わせた時に何か言ったはずだ。だけど、そうではなかった。つまり、中川さんと根夢の見た女は別の顔をしている。相手に合わせて顔から何から、全て変えられる能力があるってことだね。……普通に考えたら、そんな技を使えるのは相当力のある妖物だよ。例えば何千年も生きた狐とかね」
「その割にゃ、大した力は感じなかったぞ」
「そうなんだよね……だから見当がつかなくて困るんだ」
 あさきの言葉に榊は腕組みをして考え込む。
「やっぱり、彼女の所へ行ってみようかね」
 榊の言葉にあさきが少し眉を寄せる。
「あの狐女んとこかよ」
「ああ、あれは誰よりも妖物と色街について詳しいからね」
「まあ……そうだけどよ」
 苦虫を噛み潰したような顔で黙り込むあさきだが、榊はそれを無視し根夢に向き直る。
「根夢、明日は浅草に行くよ」
「浅草ですか」
「なーにが浅草だ。要は吉原だろうが」
 根夢が目を丸くする。それも無理はない。
 吉原は、都が東京に遷るよりも前、さらに言えば妖物が闊歩するようになった事件が起きた幕末よりも前から存在する、日本一古く大きな歓楽街、所謂遊女の置屋が店を連ねる色街だ。
 そこに知り合いがいると言う事は、榊もそこへ出入りしているという事になる。普段女っ気など微塵も見せない榊が……と思うと驚きを隠せない。
「勘違いしないで欲しいけどね、別に私がそこで遊び歩いている訳ではないよ。情報源のひとつとしてとても有益なんだよ。特に妖茶屋はね。……些か、癖が強いけど」
「その、妖茶屋ってなんです? さっき中川さんの話にも出てきましたけど」
 根夢が小さく首をかしげると、あさきが口の嘴をあげ、ニヤリと笑う。
「妖物が色を売ってる茶屋だ」
 根夢は一瞬面喰ったような顔をあさきに向けるが、すぐに納得のいく考えに至ったのか「ああ」と小さく頷く。
「色々疑問はあるだろうけど、そう言った事は直接本人たちから聞くと良い。他人がどうこう言うことではないからね。……さて、今日はもう寝なさい。私は中川さんの様子を見ながら休ませてもらうから、あさきは根夢を頼むよ。だいぶ消耗しているだろうから、夜更かしさせるんじゃないよ」
「わーかってるよ」
 榊は二人に目を配りながら頷くと、部屋を後にする。
 障子が閉まる乾いた音が部屋に響いた。
 
 ――――続く

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