1章 巫山之夢《4》


 縁側に座り込んだあさきは、雲一つない夜空に浮かんだ真ん丸な月を見上げる。
 本の山をかき分け、どうにか二人分の布団を敷きおえた根夢があさきの隣に座った。
「火傷、見せてください」
「大丈夫だ、鬼の手なめんなよ」
「そうかもしれませんけど、なんともないわけはないでしょう?」
 根夢に不機嫌そうな目を向けられ、あさきは渋々右手を差し出した。
 その手をそっと握り、じっと見つめる。「なめんな」などと言うだけのことはある。差し出された手のひらには、火傷特有の水膨れどころか、赤くなってすらいない。
「な? なんともないだろ?」
「ここまでとは思いませんでした……鬼って、みんなこうなんですか?」
「まあ……個体差はあれど、だいたいそうだな。全く傷つかないってわけじゃねーけど、自然治癒の速度が人間なんかとは格段に違うんだよ」
「全然……知らない事だらけですね。あんなに勉強したのに」
「聞いた話と実体験ってのは全く違うからな」
 手を握られたまま、あさきは月を見上げる。
 花冷えした風が二人の間を抜ける。
「……なんか、元服の時を思い出すな」
「随分時期が違いますよ」
「ああ……まあ、季節は丁度反対か」
「ええ」
 何処か近くに木があるのか、桜の花びらがひとひら落ちてくる。
「よくがんばったな」
「だから、どうしてそういう……」
 子供を褒めるような物言いに抗議しようと片眉を上げてあさきを見上げた根夢だったが、月の光を背にしたあさきの顔が思いの外慈愛に満ちていて言葉に詰まる。
「違いますよあさきさん……これからですよ」
 根夢はあさきから視線を逸らし、風に揺れる庭の木を見つめる。
「そうだな。きっと……お前が薬師として力をつければ向こうもお前を見つけて、動いてくる」
「……はい」
 庭の木を揺らしていた風が、二人の間を抜けていく。
 その風は、真逆の季節に流れた風を思い出させるように根夢の首に提げた木札を揺らした。
  
   ・・※・※・・
 
 布団に潜ってからどのくらいだろうか。
 中庭から流れる風が障子の隙間を縫って、金木犀の香りをそっと運ぶ。
 その香りを吸い込むと、なんだか香りに溺れてしまいそうだ。
 根夢は小さく息を吐くと、布団から少し離れた襖に向かって声をかけた。
「そっち、行っていいですか、あさきさん」
 返事はない。
 各々が寝室に入って小一時間は経っている。寝ていると考えるのが普通だ。
 しかし、根夢は引き下がるどころか布団から抜け出し、襖の前に正座する。
「起きてるの判ってますよ。……顔を見て話がしたいんです。ダメ……ですか?」
 正座したまま襖の前でじっと待つ。
 すると、根負けしたのか、襖の向こうからごそごそと布ずれの音が聞こえ、空気が動いた。
 数歩、足音が聞こえ襖の前で止まる。
「とりあえず、中庭行くぞ」
「……はい」
 二人は襖から離れると、それぞれの部屋から障子戸を開けて廊下に顔を出す。
 お互いの目が合うと、気まずそうに根夢が目をそらした。
「そのまま出てきたのか。もう夏じゃないんだ、冷えるぞ」
 そう言ってあさきは自分の羽織を、浴衣一枚の根夢に掛け、軽く肩を叩く。すると根夢の真っ赤になった目があさきを見上げた。
「ほら、行くぞ」
 あさきは、根夢に優しく笑いかけると一歩前を進んで歩き出した。
 
 口の字型に囲まれた中庭の真ん中で、金木犀の木が枝に満開の花を携え、二人を迎える。月の光で浮かび上がる小さなオレンジ色の花は、黙したまま風に揺られていた。
 二人は縁側に腰を下ろし、地面に直接触れないよう、庭用に置きっぱなしにされた下駄の上に足を乗せた。
 根夢がゆっくり息を吐く。
「なんで部屋に入れてくれないんですか。……今までは入れてくれたのに」
「そりゃお前……」
 不満げに睫毛を伏せる根夢からあさきは目をそらし、月を見上げる。
 ご丁寧にも月は真ん丸で、満ち足りた光を放っていた。
 あさきは目の前の金木犀に視線を下ろすと、深いため息をつく。
「いや、まあほら……俺の正体知ったばっかりだし、怖がるのが普通だろ……って、今根夢が話したいのは、それじゃないんじゃないか?」
「……別に、あさきさんはあさきさんですよ。鬼だろうとなんだろうと」
「そうか」
 根夢がじっとあさきを見上げ、答える様にあさきは真っ直ぐ根夢の目を見つめ返した。
「僕……薬師になろうと思います。一般じゃなくて、討伐の」
「わかった」
 間髪入れずに同意の言葉を返したあさきに、根夢は目を丸める。
「反対されると思ってました」
「いや、だって俺は親じゃないしな。まあ、榊のおっさんも親じゃないけど」
「でも、あさきさんも榊さんも、なんて言ったらいいか……その、結構……過保護だから……」
「……否定はしないけどよ」
「ふふ」
 根夢の体からほんの少しだけ力が抜け、笑みがこぼれた。
「榊のおっさんも……あの話をしたって事は、根夢がそう言い出すのを覚悟の上だと思うぞ」
「そう、ですかね」
「おっさんだって元は討伐系の薬師だ。根夢が元服して〝大人〟になって、真実を話した時、どんな選択をしても、教える術も覚悟もある。だから話したんだ。まあ、元服って言うのに十八歳っつーのは、ちょっと遅いけどな」
「……」
 金木犀の香りを纏った風が二人の間を抜ける。
 根夢は目の前の金木犀をじっと見つめ、ゆっくり深呼吸する。
「むしろ俺は、討伐の薬師になるって選択を歓迎する。根夢の両親を殺した烙条らくじょう家はいつか絶対に榊のおっさんと根夢を殺しに来る。今はこの金木犀とおっさんの術で強固な結界になってるから大丈夫だが、それも向こうさんが力を付けてきたら判らねぇ」
 根夢はじっとあさきを見つめ眉間にしわを寄せる。
「妖物の全排除を掲げた烙条家が、桃の精だった僕の母と、妖物と判った上で契りを結んだ父を朝廷への裏切りと称して殺した。そこは理解しました、でもなんで東京まで出てきた僕をそんなにしつこく付け狙うなんて言えるんです? 僕の中に眠ってる鬼って、誰なんです? ……そもそも、あさきさんは、どんな鬼なんですか?」
 震える声を絞り出すようにして、続け様に投げかけられた至極まっとうな根夢の問いかけに、あさきは目をそらして小さく首を振る。
「言っただろ。それも根夢に施した封印の一つだ。名を口にすれば、ソレを魂ごと認めるする事になる。認めるっていうのはそこに縁が出来るって事だ。縁は、強い力になる。そうなれば、お前から発する鬼の〝気〟を烙条家が感知する。だから、今はまだ駄目だ」
「木の下で、根と共に夢見て眠れ。僕の名前……」
「ああ、だからまだ元服してもお前の名は、本当に根夢が自分を守る力を着けるまで、幼名のままだ」
「どっちがいいんでしょうね」
「なにがだ?」
「幼名で、鬼を封じたまま、あさきさんや榊さんに守られ続けて向こうが諦めるまで待つのと、さっさと鬼を解放して大暴れするのと」
「なんで大暴れする前提なんだよ」
「だって鬼ってそういうものじゃないですか」
「お前な……何を見てそういう認識になるんだ……」
「僕の周りに居る鬼なんて一人しかいませんけど」
 あさきは大きなため息をつく。根夢の前ではあまり乱暴な姿を晒す事は控えていたはずだが、たまに町を荒らす小物の妖物の露払いくらいはしている。それをどこかで見ていたのか……それとも母である桃の精から無意識に受け継いだ妖物としてのカンと知識なのか。
 どちらにしてもここらが観念の為所かなどと自嘲気味に笑う。
「守られっぱなしでいるつもりなんかないから薬師になる決意したんだろ?」
「はい」
「なら迷う事はない。なーに暴れさせなんかしねえよ」
「でも、あさきさんにとってそれが――」
 根夢は、首から提げている桃の木で出来た御守りの木札を握りしめる。
「大切な鬼でも、ですか」
 木札を握り、少し震える根夢の手をあさきは力強く握る。
「そうだ。それがこの十八年、俺が根夢の傍にいて出した結論だ」
 大きく息を吐きながら、力が抜ける様にして根夢が項垂れ、小さく「ありがとう」と呟いた。
「さて、いい加減部屋に戻るぞ。これ以上、秋風に当たるのは身体に毒だ」
 あさきが立ち上がり歩き出そうとすると、その着物の袖を根夢が引く。
「もう少し話せませんか? 部屋、戻ってから」
 あさきは困ったような笑みを浮かべて根夢を振り返る。
「元服が何か判ってるよな?」
「判ってますよ」
「大の大人になったのに、お前……」
「大の大人になったからですよ、やっと」
 真っ直ぐ見上げる根夢の視線を、あさきは真っ直ぐ受け止める。
「……そうだな。せっかく大人になったんだ。……初酒でも煽るか」
 あさきの瞳が一瞬、金色に光る。
 あさきはニヤリと企み顔で笑って台所がある方へ歩き出し、その後を根夢は無言で追いかける。
 そんな二人を夜風に乗った金木犀の香りが、朝までしっとり纏わりついていた。
 
   ・・※・※・・
 
「あ……酒」
「ぇへ?」
 暫く黙っていたあさきが突然声を上げ、思い出から引き戻された根夢の口からは素っ頓狂な声が漏れた。
「なんて声出してんだよ。いやほら、昼間言っただろ? 夜にはゆっくり祝い酒だってよ」
「ああ……でもここ他人の家ですし」
 心底不満そうな目を向けるあさきに、根夢は苦笑いを返す。
「好きですね、お酒」
「そりゃまあ……お前と酒を飲めるようになるのが、俺の目標の一つだったし」
「そうなんですか?」
 あさきが押し黙る。
 そのまま途切れてしまった会話に居所が悪くなったのか、あさきは不意に立ち上がった。
「冷えてきた。寝るぞ」
 追いやるようにして根夢を布団に押し込み、あさきは障子を閉める。
 障子で月の光が遮られると、部屋は妙に暗く感じた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 根夢の声を背中に聞きながらあさきは布団を被る。暫くして聞こえてきた規則正しい寝息を確認すると、ようやくあさきの意識も静かに夜闇へと沈んでいった。
 
――――続く

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

 にほんブログ村 小説ブログへ